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小林倭子(こばやしわし)

近代教育の先駆者 1878〜1971年

肖像画

 「勉強しない教師は、チェーンのない自転車と同じだよ。形はあるが使い物にならない。そんな教師は早晩こども達から必ず見離される。」傘寿を過ぎてなお青年教師に熱く語りかけた小林倭子の言葉です。彼の名前「倭子」はときに女性と思われたようで、熊谷駅に入場の際、定期券と名前が一致しないと呼び止められたという。彼は、明治十一年七月四日、男衾郡小江川村上原(現小江川)で誕生した。父、小林照作の長男として産声を上げた彼の名は、日本古来の国名から採った「倭」と志を持つ男子を表す「子」によって命名された。
 明治三十三年、二二才で埼玉師範学校を卒業し、訓導として母校小原小学校に赴任した。地元の青年団有志は熊谷駅から、出迎えの旗行列をして祝った。当時近隣の村々では正規の小学校長が任命されていたが、明治六年の開校以来、小原小学校は校長不在であった。そのうえ、校舎も二十六年の大霜被害により村の予算が計上できず整備は進まなかった。また、就学率も郡内最下位(女子)の状況に長らく甘んじていた。同年の十一月、彼は校長に任命されたものの、なお山積の仕事が待っていた。
 「できることからやる」、「小さな出来事を粗末に扱わない」と地域に語りかけ、自ら研鑚を深める姿勢がいつも見えた。おだやかで、生徒の個性に則した、自由な発想で問題に取り組み、精力的に校務を処理していた。一例をあげると、農閑期には教室に畳を敷き女子に裁縫を修練させることを切っ掛けに女子の就学率引き上げに成功した。
 明治四十三年三十一歳のとき、彼は『埼玉県教育会雑誌』第二二号に、学校長は教育請負人であるべきとし、必要な訓練をあらゆる場面で行うことを述べている。
 大正九年、四二歳のとき深谷小学校長に任命された。翌十年には深谷実科女子学校長を兼任し、県下初の商業学校の設立準備委員長から開校後に初代深谷商業学校長(現深谷商業高等学校)に就任した。特筆すべきは三校長と幼稚園長兼務という中にあって、中学校教諭倫理科試験に合格したことである。旧制中学での教育資格試験(文験)は何十倍という難関で知られ、新聞には快挙として報じられた。昭和二年には大里郡教育会長に推され、高等官六等を与えられた。
 昭和7年には、別府尋常高等小学校校長馬場民八の頌徳碑の撰文を行っている。
 その後、熊谷市立図書館の設立に関与し、東京昭和第一商業学校に勤務した。このころの論評等が『大里郡時報』に見られる。「村の勃興」(第五十号)、「新年所感」(第五三号)、「関東教育連合会の問題」(第六四号)など昭和十四年まで掲載されている。敗戦となり、二十一年三月東京昭和第一商業学校の職を辞したが、浦和地方裁判所調停委員、同相談員、小原村農地委員長などの役職が彼を待ち構えていた。
 昭和二十二年、戦時協力者の公職追放のなか、公選により小原村長に当選、二十三年十一月まで村の戦後処理に追われた。しかし、教育への関心は失われず新教育制度による県教育委員の公選が行われるとともに人々に推されて立候補し、なれない選挙運動にもかかわらず当選する。次の選挙でも当選し三十一年まで八年間県教育委員として、県教育の方針立案に参画しその基礎を固めた。あるときの会議では議論が白熱して採決するという寸前に、彼は突然立ち上がり「急用があるので失礼」とすぐさま書類を整理して会場から去った。一同びっくりして、結局採決は見送られた。後日、妥当な案に落ち着いたものの、理由を尋ねられた彼は、「ああするのが勢いのまま誤った方向に行かず、自然冷却期間をおくことができ、熟慮できるだろうからとの判断」と洩らしている。
 昭和三十五年、知人のたっての懇請により熊谷市私立荒川幼稚園長に就任したのは八十二歳のときであった。三十九年には江南村名誉村民第一号を、四十五年には勲四等瑞宝章を授与された。四十六年一月十二日に老衰のため小江川の生家で死去。十八日村葬が行われ、遠近千五百人余の弔問があった。

   
小林倭子頌徳碑(小江川1963)  西別府馬場民八徳碑 同左「小林倭子撰」」 

年表

和暦 西暦 出来事
明治11年 1878年 7月4日、小江川村上原 小林照作・いくの長男として誕生。
明治33年 1900年 3月、22才、埼玉師範学校卒業、4月新築された小原小学校(現江南南小学校)に訓導として着任。
11月、小原小学校校長に昇任。
明治39年 1906年 28才、女子修学の増加のため小原小学校に裁縫科の設立を進言、県に申請。
明治41年 1908年 30才、埼玉県知事表彰。
明治44年 1911年 4月、33才、北葛飾郡視学に任命される。
大正6年 1917年 4月、39才、児玉郡視学に転任。
大正7年 1918年 5月、40才、粕壁小学校長・粕壁実科高等女学校校長を兼任。
大正9年 1920年 4月、42才、深谷小学校長任命。
大正10年 1921年 4月、43才、深谷実科女学校・深谷商業学校長・双葉幼稚園長兼任。
10月、文部省中学倫理科教員試験合格。 11月 高等官八等待遇。
昭和2年 1927年 49才、大里郡教育会会長に推される。
昭和4年 1929年 51才、法制経済課教員試験合格。
昭和5年 1930年 52才、従六位勲六等瑞宝章に叙せられる。
昭和6年 1931年 53才、高等官六等に叙せられる。
昭和7年 1932年 3月、54才、深谷小学校、深谷実科女学校、深谷商業学校、双葉幼稚園長を退職。
4月、教育会会長辞任 熊谷市立図書館主事に請われる。
昭和8年 1933年 4月、55才、東京昭和第一商業学校の教諭に着任。
昭和9年 1934年 56才、大里郡教育会長として「大里郡時報」に著述 昭和14年まで。
昭和21年 1946年 3月、68才、東京昭和第一商業学校退職
4月、浦和地方裁判所司法委員、同調停委員、浦和家庭裁判所調停委員に委嘱小原村農地委員長委嘱公選により小原村長に当選。
昭和23年 1948年 10月、70才、小原村長辞任し、11月 埼玉県教育委員会委員に立候補。教育の民主化、教育の自主性確保、教育の地方分権を主張して当選する。
11月、初代埼玉県教育委員長をつとめる(23〜24年、25〜26年)。
昭和27年 1952年 10月、74才、埼玉県教育委員再選、教育委員長再任。
昭和31年 1956年 9月、78才、教育委員任期満了で退職。
昭和35年 1960年 1月、82才、熊谷市の荒川幼稚園園長に就任。
昭和36年 1961年 11月、83才、埼玉新聞社の埼玉文化章教育章を受賞。
昭和39年 1964年 5月、86才、江南村名誉村民を贈られる。
昭和40年 1965年 4月、87才、勲四等瑞宝章を受賞。
昭和43年 1968年 12月、90才、浦和地方司法委員、調停委員辞職 荒川幼稚園長辞職。
昭和46年 1971年 92才、1月12日逝去 従五位追綬 1月18日江南村村葬。
昭和59年 1984年 生地に頌徳碑が建てられる。

文献

和暦 西暦 標題 書誌名 要旨等
明治42年 1909年 訪問録 埼玉県教育会雑誌 22 現代風に表現すれば面接記事である。学校は子供を見ること、校長は一般人と交流を計ること、学校、役場、農会と一体化すること、生徒の身体、精神の訓練、出席督励、鬱病対策にも言及するなど現代に通じる視点から指摘している。
国民の二大休日 埼玉県教育会雑誌 25 戊辰詔書下付の日(10月13日)、教育勅語発令の日(10月30日)の両日を効果的に利用する方法が地域の実情に応じてなされることが必要であると社会教育の視点で述べられる。
明治43年 1910年 新歳における一大懸案 埼玉県教育会雑誌 28 太陽暦の採用は明治六年だったが、依然として農村部では太陰暦が横行。
この是正には、国の祭日を盛大にすること、その意義を明確にすることが必要と主張する。
文庫実施上の実際 埼玉県教育会雑誌 29 当時の通俗教育(現在の社会教育にあたる)の巡回文庫実施につき、@村内周知方法、A巡回文庫趣旨、B開始式、C閲覧カード、D日誌・奨励等、E貸出などを実践に基づいた細かい解説をしている。
災余の急務 埼玉県教育会雑誌 37 明治43年の荒川大洪水を目にした小林は顎堂(正しいことを直言するとの意味)と号することを決めた。教育の財政健全化を計る学校基本財産確立の方法を、到達年度を制限し、奨励金を支払う案を述べる。
明治44年 1991年 職員七勉 埼玉県教育会雑誌 40 @共同一致、A教師の人格修養、B間断なき教材研究、C親の心を汲む、D他人より学ぶ、E社会教育に目を向ける、F日常職務の遂行を求めるなど、現代と研修の方法は少しも変わっていないようだ。
大正11年 1922年 桃山御陵・京都御所拝観の記 埼玉教育 176 この年、学制頒布五十年を記念して町教育史や簡易図書館の設立が各所で行なわれた。大里郡小学校校長団40名の一人として参加した京都御所・桃山御陵(明治天皇の陵墓)などを拝観した紀行文を寄せている。
大正12年 1923年 茅ヶ崎海浜保養所便り 埼玉教育 185 日本赤十字社主催の海浜学童保養所が神奈川県茅ヶ崎町で開催され、90数名の児童を引率しての参加記録。「茅ヶ崎便り」と題する文には20日間に及ぶ児童の生活記録が水泳指導・江ノ島行き・学芸会等の行事のほか、炊事・寝具などの様子が報告され、そのきめ細かなまなざしが伝わってくる。
震災後の教育について<二> 埼玉教育 187 未曾有の災厄をもたらした関東大震災後の、被害・迷妄の惨禍を踏まえ、教育提言を行なう新教育運動。国民道徳の社会化、国体の明徴(教育勅語の精神)、同朋愛、隣保相互扶助、自主自立、勤倹、自由と服従、道徳と経済、法制の調和をあげている。また、教育としての知見の拡充、理科教授の刷新、感情の重視、体育施設の充実、意思の鍛錬をあげ進取の気象をもって一事敢行を訴える。中根東里(江戸中期の儒者)の言葉「出る月を待て」を引用している。
大正13年 1924年 教育教授の革新 埼玉教育 194 一斉・画一からの脱却についてダルトンプランとプロジェク・メイソーを紹介し、自覚と自己決定・自己実現の観点から論評するが拙速な結論を出さない。
自由教育の研究 埼玉教育 196 自由教育の盛んな千葉県の実践を見聞して、児童の個(個性・資質)を磨き児童相互の集団討議をへて、教師の統制補足を自由教育論の基礎と認識している。しかし、この一方法(自由教育)だけが教育でないと辛口の論評もしている。
大正14年 1925年 年頭新声 埼玉教育 200 (1)国民的勤倹運動について(2)新年に際し県教育会に対する希望のアンケートに答えた一文。(1)について、勤倹については貯えに重点が置かれるが、内部的自己向上が必要とする。実例を、新年賀のはがき代をこの新年号で節約できたとユーモア交じりに表現。(2)については、教育大家の新思潮をどう受け止めるか、国内教育施設団体の視察団員に学校長を加えること。教員の内申権の扱い、師範教育改制の意見を教育より取り上げること等の問題点を具体的に上げている。
大正15年 1926年 自発活動を重視する教育案(1) 埼玉教育 213 大正期新教育運動の旗手であり熊谷高等小学校長竹塚幾治朗氏の下に小林ほか六名が参加して研究報告を行なったもの。上巻は学習の原理、方法論について論述され自発学習の誘発を説明している。下巻では自我を自覚して学習を、@独自学習、A分団学習(グループ学習)、B共同学習、C独自学習の四段階に分け、授業時間中でも各段階を実施した。自ら律するという学習態度の育成を目指した。
自発活動を重視する教育案(2) 埼玉教育 214 同上
満鮮支の旅 埼玉教育 222 大正15年8月28日より始まる満州・朝鮮・支那の旅の紀行文。9月6日に奉天にて全国校長会が開催されることから、埼玉県では小林ほか10名が派遣された。小林の記した紀行文は風俗・地理・日露戦争の戦跡など彼の注意を引いた事物が事細かに平易な文章で率直にレポートされている。当時東京から下関までほぼ24時間を要した。
昭和3年 1928年 高等小学校の改善について 大里郡時報 3 昭和3年期の高等小学校教育の欠陥とされる@確たるも無き入学者、A中学校(旧制)に入学できなかったから、B後々のためという考えのあることを示した七つの対策を示す。
昭和5年 1930年 回陽策 大里郡時報 27 昭和恐慌のさなか「縦の緊縮と横の緊縮」という題名が興味深い。農村型緊縮と市街地方緊縮と連結して、平衡感覚的な経済の立て直しを論ずる。
昭和9年 1934年 「村塾の勃興」 大里郡時報 50 農士学校等の学校教育によらないかつての村塾のような実学教育が学校教育を補うものとしてその振興を提唱する。
昭和10年 1935年 「新年所感」 大里郡時報 53 地方の健全な歩み方を、地方自治・産業・教育の一体的な進展と表明。
昭和11年 1936年 「新年所感」 大里郡時報 59 文体が口語調に変わる。中等学校教育の目的を、地方中軸たる人物の養成にまた、文化向上に奉仕することに本文があり、もって地方産業(農業・商業)の発展があると説く。
任務の二重奏 埼玉教育 63 日中戦争の勃発により国中が好戦的な流れになるなか、国防の体(国体のあり方)としては、天皇親政、八絋一宇に基づく国際平和主義を、国内については社会連帯の必要を隣保共同の相互扶助の制としていう。また、卑近な例をとり実業家が生産能率の向上を図ると同じく、教育者は児童・生徒各人自らが学び行うことを学ばせることが教育の目的であり、教育者の任務と述べている。
「関東連合教育会の問題二、三」」 大里郡時報 64 教職員給与の府県支弁について、自治は固有事務であると表明(府県支弁に反対の立場か)。
昭和12年 1937年 「新年の待望」 大里郡時報 65 税制改革により府県による教職員給与の支弁を可能とするが、その可否はともかく、義務教育年限を6年から8年に延長しようと提言。教育の国策であるといっている。また、教員の官僚化を暗に戒めている。
「我が国憲政の平解」 大里郡時報 67 欽定という憲法の特異性を説明。議会制度や議員の責任を時事に沿って説明した上で独善政治を排し、中道を歩む教育者による知見の開発普及を望むとする。
「渾一主義と唯一主義」」 大里郡時報 70 @渾一と唯一時局を省みて「よじのもぼる麓のみちは多けれど同じたかねの月を見るかな」と渾一主義であれ唯一主義に陥るなと述べる。もって、A広義の国防と協議の国防、銃後の安定と責任をいう。以下、B国民精神総動員の説明、C国民精神練磨の道場(郷土の大集成が国家)、D戦後に備えよの項目で目指すところは郷土の再建、町村振興とする。
昭和13年 1938年 「此の心に燃えたい」 大里郡時報 71 支那事変以後の国威の発揚を讃えながら、渾一主義を再説明する。
「国家総動員法茶話」 大里郡時報 72 国家総動員法を国民権利の制限の観点から説明する。「政治の動きを学問の研究として見つめたい、其彼におぼれてはならぬ、我等は冷静を米に、興奮を英に観ている。」
「国民精神総動員の本部」 大里郡時報 73 長引く中国戦線への銃後の役割として70号の要旨で再論し、町村長が主体となって組織的に行うように提言。
昭和14年 1939年 「巻頭言」 大里郡時報 76 聖戦の追行にあたり、各界各団体の統制指導を肝要とした。口語調 内容がない。
「新年所感」 大里郡時報 80 神社参詣祈願、青年団への提言を明治天皇の和歌や神話など(祝詞)から説明し、渾然主義を少し表現している。
昭和24年 1949年 「三つの扉」 埼玉教育   県教育委員長の立場で、新教育の提言として次の三点を述べる。「男女共学」、「五日制教育」、「高等学校通学区域制」について、過去のしがらみ替えを求める。
昭和26年 1951年 「新景二題」 埼玉教育   中国詞『春日誌』と嶋崎藤村『若菜集』から「春の歌」をとりあげ、個々の自由な学問立志の湧出を述べる。
昭和41年 1966年 昭和初期の教育と今の教育 埼玉教育   40年前の教育を振り返って現在の教育を省みたエッセー。自由と放任のけじめの難しさ、自己表現・実際授業方法と手段の立案、自己の理想実現に向かう自らの実践を強調する。折りしも文化大革命に揺れる中国紅衛兵デモと日教組の闘争を絡める時事センスには衰えを感じさせない。
平成17年 2005年 「コラム4
近代教育の先駆者「小林倭子」
『江南町のあゆみ』江南町