井田友平(いだともへい)
ポマード王 1889から1965年
生い立ち
井田友平は、明治22年(1889)3月17日に弥藤吾村で農業を営む父井田定吉、母フクの長男として生まれました。
学問好きだった友平は、妻沼尋常小学校弥藤吾学校(現福寿院)を卒業後、妻沼村外八ケ村組合立幡羅(はたら)高等小学校(観清寺学校)に入学します。当時この学校で学んだ卒業生からは、友平をはじめ宮本・石坂・綾川の4代議士を輩出しました。友平は家業を手伝いながら苦学して卒業しました。
家庭の事情で中学校に進めなかった友平は、上江袋能泉寺塾で戸田英龍和尚について漢学等を修めました。
メヌマポマードの創始
友平は、17歳の春、同郷の先輩を頼りに上京し、石けん雑貨行商の見習い奉公に入りました。3年間勤めた後、明治43年(1910)3月、友平は東京本所緑町で井田京栄堂を設立し石けん雑貨卸(おろし)商として独立しました。夜遅くまで行商に精を出し、事業は日増しに拡大していきました。
やがて、当時まだ高級とされていたポマードを、低価格の国産品として売り出すための開発に取り掛かり、「メヌマポマード」の開発に成功。すぐに工場を建設し、大正6年(1917)、製造販売を開始しました。輸入ポマードには勝てないとの批判の声とは裏腹に販売直後から大盛況を呼びました。
ポマード王に君臨
従来の輸入ポマードは鉱物性調髪油を使用したベタツキ感が不評でした。メヌマポマードは純植物性の調髪油を使いさらっとしたつけ心地にし、若者のニーズに応えました。その後、ブランド品として国内シェア75%を占め、ポマードの代名詞のように呼ばれるようになりました。
関東大震災・東京大空襲により工場等を失いましたが、そのつど再建を果たし、戦後には社名を株式会社メヌマに改めました。テレビ放送において、服部時計店に次ぐ第2号のCM提供も行っています。また、海外輸出にも力を入れ、メヌマポマードの名は国外にまで広がりました。
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昭和10年頃の「メヌマポマード」 | 現在の「メヌマポマード」 |
めぬま郷土かるた
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政界への情熱
友平は政界にも関心を持ちました。
昭和5年(1930)、本所区会議員となり、同9年(1934)には同区会議長となります。同8年(1933)からは、3期東京市(都)会議員を務め、同19年(1944)には同参事会員、同20年(1945)には警視庁警務委員長を歴任しました。同21年(1946)5月、埼玉県第3区に日本自由党から出馬、当選して第一次吉田内閣時の参議院議員となりました。
故郷妻沼への想い
友平は、居を東京に構えながらも、常に思いを故郷妻沼に寄せていました。
昭和32年(1957)、弥藤吾新田の居宅を妻沼町へ寄付、現在「井田記念館」として整備され、住民の文化高揚の場として活用されています。同35年(1960)には石造書庫を役場に寄付しました。
また、同39年(1964)、私財1億円を拠出して「財団法人井田育英会」を設立。郷里の後輩の育英に力を注ぎました。現在に至るまで多くの奨学生がこの恩恵を受けています。
名誉町民第一号を讃(たた)えて
こうした友平の功績を讃えて、昭和32年(1957)には、聖天山境内に井田友平先生頌徳(しょうとく)碑が建立され、賛助員は211名を数えました。同33年(1958)には、郷里弥藤吾で井田報徳会を結成、氷川神社に胸像(現井田記念館)が建てられました。
昭和34年(1959)、妻沼町は「名誉町民条例」を制定し、同35年全会一致で友平を名誉町民第一号に認定しました。
友平は、昭和40年(1965)、脳血栓で倒れ、10月31日に76歳で没しました。
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胸像 | 井田記念館 | 頌徳碑 | ||
年表
和暦 | 西暦 | 月 | 出来事 |
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明治22年 | 1889年 | 3月 | 17日、弥藤吾村(現熊谷市弥藤吾)に父井田定吉・母フクの長男として生まれる |
明治33年 | 1900年 | 3月 | 妻沼尋常小学校弥藤吾分教場(現福寿院)卒業 |
明治37年 | 1904年 | 3月 | 妻沼村外八ヶ村組合立幡羅高等小学校卒業 |
明治37年 | 1904年 | 4月 | 上江袋能泉寺塾にて戸田英龍和尚につき、漢学等を学ぶ |
明治39年 | 1906年 | 3月 | 上京し、石けん雑貨行商の見習いとなる (17歳) |
明治43年 | 1910年 | 3月 | 東京本所緑町(現墨田区)に井田京栄堂(資本金37円)を設立 |
大正6年 | 1917年 | 5月 | 本所区緑町2丁目に工場建設。メヌマポマードの製造・販売開始(28歳) |
大正12年 | 1923年 | 9月 | 1日、関東大震災に被災 (34歳) |
大正13年 | 1924年 | 3月 | 京栄堂卸部を弟幸八郎の井田両国堂に移譲 |
昭和2年 | 1927年 | 3月 | 大阪東区和泉町に支店開設 |
昭和5年 | 1930年 | 3月 | 本所区会議員に就任 |
昭和6年 | 1931年 | 東京都墨田区立川2-10-7に工場新設 | |
昭和8年 | 1933年 | 東京市会議員に就任(3期、〜昭和18年6月) | |
昭和9年 | 1934年 | 3月 | 本所区議会議長に就任(〜11年1月) |
昭和16年 | 1941年 | 6月 | 紺綬褒章受章 |
昭和18年 | 1943年 | 9月 | 東京都議会議員に就任(〜昭和21年4月) |
昭和19年 | 1944年 | 東京都市会議員参事会員に就任 | |
昭和20年 | 1945年 | 3月 | 戦災により工場・店舗焼失 |
昭和20年 | 1945年 | 警視庁警務委員長に就任 | |
昭和21年 | 1946年 | 3月 | 千代田区富士町の仮営業所で生産を再開 全国に代理店制度を設ける |
昭和21年 | 1946年 | 5月 | 日本自由党より埼玉県第3区に出馬、衆議院議員に当選(第1次吉田茂内閣時・57歳) |
昭和23年 | 1948年 | 「株式会社メヌマ」に改組、取締役社長に就任 東南アジア、沖縄、太平洋諸島に輸出開始 |
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昭和25年 | 1950年 | 2月 | 東京都化粧品工業会副会長に就任 |
昭和27年 | 1952年 | 5月 | 東京都化粧品工業会長に就任 (63歳) |
昭和29年 | 1954年 | 2月 | 墨田区立川の工場跡に新工場及び事務所新築 |
昭和32年 | 1957年 | 弥藤吾の居宅を妻沼町に寄贈、移築(後の井田記念館) | |
昭和32年 | 1957年 | 11月 | 井田友平頌徳碑、聖天山境内に建立、撰文衆議院議員石坂養平 |
昭和33年 | 1958年 | 1月 | 弥藤吾の有志が井田報徳会を結成、友平胸像を建立 |
昭和35年 | 1960年 | 3月 | 21日、妻沼町名誉町民第1号に推挙される (71歳) |
昭和35年 | 1960年 | 石造書庫を妻沼町役場に寄贈 | |
昭和39年 | 1964年 | 8月 | 「財団法人井田育英会」を設立、私財1億円を拠出 (75歳) |
昭和40年 | 1965年 | 3月 | 脳血栓で倒れる |
昭和40年 | 1965年 | 5月 | 17日、勲四等瑞宝章受章 |
昭和40年 | 1965年 | 10月 | 31日没、東京多摩霊園に埋葬される (76歳) 従五位に叙せられる |
緑字・・・・メヌマポマード、経営に関すること
赤字・・・・政界に関すること
青字・・・・故郷妻沼と関わること
文献
書名 | 著者名 | 出版社 | 出版年 |
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「井田両国堂四十年史」(井田日出男) | 井田両国堂 | 1960. | |
妻沼町史 | 妻沼町 | 1977. | |
資料編さんだより4 | 埼玉県立文書館 | 埼玉県立文書館 | 1998. |
『熊谷市史研究 第9号』 【研究ノート】井田友平の生涯とメヌマポマードの創始P95 |
水品 洋介 | 熊谷市教育委員会 | 2017.03. |