現在の位置:ホーム > 熊谷の偉人の部屋 > 竹井澹如

竹井澹如(たけいたんじょ)

初代の埼玉県会議長 1839〜1912年

旧星溪園棟札
「此囲は明治二十六年夏宮内省御用掛赤塚輯に相談の上大工白根藤吉をして営繕せしむ 竹井澹如」

※画像をクリックすると拡大表示します。

 天保10年(1839)群馬県羽沢村の豪族市川五部兵衛の六男としてに生まれ、嘉永5年(1852年)14歳の時に江戸に出て、藤村弘庵の塾で学問を修め、斎藤弥九郎に師事し剣を学びました。
慶応元年(1865)、熊谷宿の本陣竹井家を継ぎ、竹井家の14代当主となり、以後熊谷の発展に尽力しました。
慶応年間に鎌倉町に別邸である、池亭を設けました。そこには昭憲皇太后や大隈重信、徳富蘇峰などの名士が来遊し後年、「星溪園」と名付けられました。また政治に深く関心があり、地方実力者の養成に努め、中央政界の大隈重信、板垣退助、陸奥宗光らとも親交があり、陸奥宗光に働きかけて熊谷県誕生に尽力したことでも有名です。教育面でも渋沢栄一らと協力し、育英事業にも貢献しました。初代の県会議長となり、産業・土木面でも大きな功績を残しました。

この他、書にも関心を持ち、書家小泉香巒を熊谷に招いて唐様書道の普及を図り、書家の金井之恭(1833-1907)、巌谷一六(1834-1905)とも交友がありました。
明治元年(1868)嫡男耕一郎、明治6年(1874)長女みちが生まれました。耕一郎は東京帝国大学を卒業した法学者、みちはお茶の水高女を卒業した漢学者で、秩父セメント創業者諸井恒平に嫁いでいます。
また、俳人として、多景居幽谷と称し、中央の老鼠堂永機、春秋庵幹雄らと親交がありました。明治19年には、内田朴山押田文袋らと諮り、内海良大を熊谷に招聘し、俳句の研究結社を作りました。
大正元年(1912)8月7日74歳で没す。辞世の句は「短夜の 水にくづるる 篝(かがり)哉」。戒名「喬松院行誉徳哉澹如居士」として、熊谷寺に葬られました。
竹井澹如墓は、昭和56年熊谷市指定記念物史跡に指定されています。

澹如の絵葉書
昭和15年発行の絵葉書が残されています。「千江有水千江月 萬里無雲萬里天」と記されており、下部に澹如の肖像が描かれています。原典は不明ですが、掛け軸になっていたものをスケッチしたものと思われます。
「千江有水千江月 万里無雲万里天」は「千の川に水あれば千の川に月あり、万里に雲なければ万里に天あり」と読み、「どんな状況でも、あるがままを受け入れれば、すべてが本質を映し出す」という禅の教えを表す言葉です。出典は、此菴禅師(中国南宋時代の臨済宗楊岐派の禅僧)の『嘉泰普燈録』です。

 
竹井澹如翁碑(万平町1-1)
熊谷市指定記念物 史跡
昭和34年11月3日 指定
竹井澹如墓(大原墓地内)
熊谷市指定記念物 史跡
昭和56年11月3日 指定
絵葉書「澹如翁思慕図」 

澹如の葬儀写真

明治45年8月7日に亡くなった、竹井澹如(1839-1912)の葬儀の様子を写した写真が残されています。
葬儀は、8月10日午後1時に自宅を出発し、熊谷寺で行われました。写真では裏門から家に入る場面が写されていますので、葬儀の後、自宅に戻った際の様子を写したものと思われます。

1枚目の写真は、提灯・旗・花を持った白装束の葬列が、白黒の幕がかけられた板塀の脇を通り、瓦葺きの門から邸内に入ろうとしています。

2枚目の写真は、龕(ずし:棺をのせて運ぶ輿)が白装束の輿丁(よてい:龕を担ぐ人)12名によって担がれており、被っている烏帽子には白いバツ印がつけられています。龕の前の旗には、最後の文字が読めませんが「故竹井澹□」と読め、竹井澹如の葬列であることがわかります。

3枚目の写真は、龕が門に入っていく場面です。龕の後ろには、白い布で包まれた墓標が続き、さらに5人の紋付き袴に山高帽を被った男性が続きます。先頭の耕一郎(澹如の子)が位牌、孫の毅が香炉、親戚の岩崎周作が水向(みずむけ:霊前に供える水)、野口弘毅がが奠湯(てんとう:霊前に供える暖かい飲物)、諸井恒平が奠茶(てんちゃ:霊前に供える茶)を持ちました。
この龕が入っていく家は、左上の門内に、窓の沢山ついた長い蔵が写っています。嘉永2年(1849)に描かれた、熊谷市指定有形文化財 古文書「本陣絵図」に描かれている酒造蔵と思われます。熊谷宿の本陣は明治17年の大火で焼失していることから、酒造蔵と門は明治の火災を免れたようです。

4枚目の写真は、葬列が、葬儀の行われる熊谷寺へ、中山道の本町付近を西に向かって進んでいます。葬列の僧や見物人の一部に傘をさしている人がいます。8月の暑い日に、当時男性も日傘をさす習慣があったとは思えず、にわか雨が降ったのか、あるいは死穢を覆い隠す習俗だったのかもしれません。葬列奥には棺を運ぶ龕(がん)が担がれており、その手前には「故竹井澹如之棺」と書かれた旗が見えます。
左手には、中山道に面した瓦葺2階建ての商店が並んでいます。手前の商店の軒上には、四角い看板が4枚乗せられており、さらに組んだ棒を路上に出して、看板とメガネのオブジェを吊り下げています。看板には「WATCHI&CLOKC 熊谷本町 近亀時計支店」と書かれており、懐中時計の中に女性が描かれています。

【参考】
栗原健一「竹井家澹如の死と葬儀」『熊谷市史研究』第5号 2013年
栗原健一「竹井家の葬列写真」『熊谷市史研究』第6号 2014年

   
 澹如の葬儀写真1  澹如の葬儀写真2
   
 澹如の葬儀写真3  澹如の葬儀写真4


年表

和暦 西暦 出来事 出典
天保10年 1839 上野国甘楽郡羽沢村(現、群馬県甘楽郡南牧村)に、市川五郎兵衛の六男として生まれる。
嘉永5年 1852 14歳の時、江戸に出て、藤森弘庵に学ぶ。
慶応元年 1865 熊谷宿本陣の竹井家に世継ぎがなかったため、養子として入り、14代当主となる。この頃、熊谷市竹町(現、熊谷市鎌倉町)に別邸を造り、珍木奇竹を植え名石を配し、池亭(現在の星渓園)と称した。
明治2年 1869 前年に荒川が出水して北岸の堤防が決壊したことを受け、突堤の新設に尽力した。このため、大蔵省営繕司の安永又吉土木技師の申請により、「万平出し」の名称を付すことを許された。 林:1935
明治3年 1870 熊谷宿における役人の名称が変わり、元締役・駅長に就任する。
明治6年 1873 県庁の誘致運動で中心的役割を果たし、熊谷県が誕生する。
明治9年 1876 私立中学折逓学舎・暢発学校を設立。
明治12年 1879 初の県会議員に当選し、初代議長に選出される。
明治17年 1884 竹井家旧熊谷本陣火災で焼失。
明治19年 1886 内山朴全、押田文岱らと俳句の研究結社を設立。
明治21年 1888 俳人団体「水音盟社」を結成し、句会を主に池亭で催した。
明治39年  1906  桜樹の栽植を目的とした「保勝会」を設立して会長となる。副会長は林有章。  
大正元年 1912 8月7日、74歳で永眠。
 昭和7年 1932 竹井澹如翁碑が、太神宮脇に建立される。  
 昭和35年 1960 竹井澹如翁碑が、万平公園の旧桜堤上に移設される。  

文献

書名 著者名 出版社 出版年
『熊谷大観』「竹井澹如」 下田江東 埼玉民報社 1917.
『熊谷史話(幽嶂閑話)』「竹井幽谷翁」 林有章 国書刊行会 1935.
『熊谷郷土会誌 第1号』竹井澹如翁伝 酒井天外 熊谷郷土会 1936.07.
竹井澹如翁小伝 斎藤 茂八/著 竹井澹如翁碑再建の会 1960.
「竹井澹如」『埼玉県人物誌』中巻 石坂養平 埼玉県立文化会館編 1964.
『熊谷人物事典』「竹井澹如」 日下部朝一郎 1982.
『市民教養セミナー平成4年度』竹井澹如翁 渡辺 淘一郎/著 熊谷市郷土文化会 1992.
『熊谷市郷土文化会誌 第56号』
「竹井澹如と林有章の書」
新井 晴次/著 熊谷市郷土文化会 2001.
絵本竹井澹如翁一代記 福島茂徳/著 福島茂徳 2003.08.
『建産連ニュース第98号』竹井澹如P27〜31 間仁田 勝/著
埼玉県建設産業団体連合会広報委員会/編
埼玉県建設産業団体連合会 2003.10.
『熊谷市郷土文化会誌 第67号』
「私見・旧熊谷市における三人の偉人」
鯨井 邦彦/著 熊谷市郷土文化会 2011.
『熊谷市史研究 第5号』
研究ノート 竹井澹如の死と葬儀
−没後100年に際して−P73
栗原 健一 熊谷市教育委員会 2013.03.
『熊谷市史研究 第6号』
研究ノート 竹井家の葬列写真P129
栗原 健一 熊谷市教育委員会 2014.03.