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根岸友山(ねぎしゆうざん)

 文化6年(1809)〜明治23年(1890)

人物

文武両道の教育に尽力

 根岸家は江戸時代の豪農として栄え、幕末期の友山は、16歳にして家督を相続し、名主となって村政を行いました。そして自邸内に「振武所」という剣術道場と「三餘堂」という寺子屋を開き、国学者の寺門静軒を招き、子弟の教育に尽力しました。
しかし荒川の堤防普請で、役人の不正を正すためにいわゆる「蓑負騒動」に加担し、厳罰を受けてしまいました。しかし村人の信頼厚く、安政6年(1859)には赦免され、子弟教育を再開しました。
また友山は長州藩と親交があり江戸藩邸に招かれることもありました。幕末には、尊王攘夷論者であった友山は、浪士組(後の新撰組)に一時参加しましたが、隊の中の意見や主張の相違から途中で分かれ帰郷し、その後は村政に尽力しました。

年表

年号 西暦 関連事項 時代背景
文化6年 1809年 11月24日、生まれる。幼名は房吉。  
文政7年 1824年 16歳で家督相続。甲山村名主となり、信輔と改名。 荒川大洪水
伴七を襲名。  
文政10年 1827年 19歳で比企郡小川村の笠間さわと婚姻。 文政の改革
天保3年 1832年 父信保没す。  
天保4年 1833年 地理直し御普請なる。この頃三余堂開塾。  
天保6年 1835年 甲源一刀流の目録を受け、「振武所」を開設する。  
後北辰一刀流千葉周作の指導を受ける。  
天保8年 1837年 寺門静軒、三余堂で講筵  
天保10年 1839年 蓑負騒動起こり、奉行所の吟味を受ける。  
天保12年 1841年 江戸十里四方追放刑。友山甲山を去る。 天保の改革
安政2年 1855年 この頃から甲山村へ帰村。 安政の大地震
この年以降、昌平の学生が交互に来訪する。  
安政6年 1859年 熊谷宿の百間出し堤による洪水被害に対し、訴訟が起こる。  
万延元年 1860年 長州藩と密約する。 桜田門外の変
文久2年 1862年 熊谷宿との百間出し訴訟和解なる。 坂下門外の変
文久3年 1863年 狼士組に参加し上京、東下して新徴組に参加するが、脱退、長州藩との合体を模索  
元治元年 1864年 権田直助らと討幕の挙兵を企てる。 第一次長州征伐
慶応2年 1866年 武州一揆、根岸邸を襲う。  
慶応3年 1867年 吐血論を書く。 大政奉還
明治元年 1868年 官軍に捕縛される。寺門静軒没す。 明治維新
明治2年 1869年 名字帯刀を許される。  
明治4年 1871年 この頃、神道普及。胄山村民を神葬祭に。  
明治11年 1878年 妻さわ没す。享年67歳。  
明治21年 1888年 漢詩集『田園雑興』を出版。  
明治23年 1890年 11月24日、不例就床。12月3日没す。(享年82歳)  

エピソード

〈長州藩との密約〉

 当時の江戸の政治情勢は大変悪く、いつ何時、何があってもおかしくない情勢でした。そこで長州藩は一大事が起こった時のために、世子や婦女子を逃がすために、友山と物産交易を隠れ蓑にして助力を要請しました。これは友山が尊王攘夷論者であったことや、その人柄が信頼に足る人物であったということが大きな要因であったと言えるでしょう。

〈友山の政治・文筆活動〉

 浪士隊を離れ帰郷した友山は、村政に力を注ぎましたが、世の中の政治思想に対しても自己の主張を発言しました。中でも「吐血論」は友山の尊王攘夷論をまとめた書物として写本が広まり、喝采を浴びたということです。また明治新政府にも献策を行い、廃藩置県に関する建白書や、関東の治水事業を献策した「治水表」など、多くの提言を行いました。

文献

書名 著者名 出版社 出版年
根岸友山・武香の軌跡 : 幕末維新から明治へ 根岸友憲 監修 ;
根岸友山・武香顕彰会/編
さきたま出版会 2006.05.
新選組銘々伝 第4巻 新人物往来社/編 新人物往来社 2003.10.
根岸友山と根岸武香 根岸友憲
1998.
前田愛著作集 第4巻 (幻景の明治)
筑摩書房 1989.12.
武蔵の豪農と尊攘思想--
大里郡甲山村根岸友山の場合
沼田 哲
1980.04.
近世末期における地方豪農の動向について--
武蔵国大里郡甲山村根岸友山の場合
秋葉一男
1971.04.
近世末期における地方豪農の動向について--
武蔵国大里郡甲山村根岸友山の場合
(1970年度大会特集・幕藩制の崩壊と関東-2-)
秋葉一男
1971.04.
田園雑興 [根岸]友山/著 根岸武香 明22.11.
根岸家諸記録

[江戸末期-大正] [写]

根岸友山関連の「根岸家長屋門」保存修理工事報告書はこちら(PDF:6.47MB)からダウンロードできます。