牛島半舟(うしじまはんしゅう)(1880-1913)
俳人。本名半助、健吾。熊谷宿仲町壁材料商の牛島家に生まれる。幼少より文芸に興味を持ち、加須村の川島奇北に俳句を習う。明治39年「蛙声会」を主催し、『蛙声』を刊行する。特別賛助員に竹井幽谷、林幽嶂、賛助員に岡部素柳、押田文袋、中川迂呆、中澤正覚等が名を連ね、会計を和久井吟笑が務めた。明治42年「蛙声」解散後、石島雉子郎主催の「浮城」に入会、新聞記者としても活動し、生涯を俳句作家として邁進する若くして京都成田蒼虬 (1762-1842)の門に入り、俳諧の道を極め、皓々 処の号を授かり、始め北涯、阿鳥と号し、晩年に日永庵と号した。全国を巡り、安政四年(1857)71歳で故郷熊谷に帰り、星溪園近くの数寄屋造り庵を建て、芭蕉に因んで日永庵と称し後進の指導に当たった。
「梅一枝 持て来る里の 禮者かな」
「人かけの 柳に入るや おほろ月」
「庭さきて 事足る庵の 茶つみ哉」
「歌もなき 古女房の 茶つみかな」
「庭さきて 事足る庵の 茶つみかな」
「橋て笛 牛若丸を 気とつて見」
「名物の むすめ見に行く 櫻かな」
「引く鶴や 岸頭に立つ 我一人」
「人かけの 柳に入るや おほろ月」
「庭さきて 事足る庵の 茶つみ哉」
「歌もなき 古女房の 茶つみかな」
「庭さきて 事足る庵の 茶つみかな」
「橋て笛 牛若丸を 気とつて見」
「名物の むすめ見に行く 櫻かな」
「引く鶴や 岸頭に立つ 我一人」
参考文献
- 明治39年『蛙声』第1巻第1号 蛙声会