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年 表

和 暦 西 暦 出     来     事
昭和17年2月4日 1942年2月4日 軍からの強い要望により、東武鉄道は群馬県邑楽郡大川村と熊谷市を結ぶ13.8kmの「大川村熊谷市間地方鉄道敷設免許申請」(工第1350号)を鉄道大臣に申請する。
昭和17年2月5日 1942年2月5日 東武鉄道より、中島飛行機太田、小泉工場へ免許申請の理由書を書簡で通知する。
昭和17年2月 1942年2月 東武鉄道本社工務部建設関係者5名で現地の測量を開始する。
昭和17年6月8日 1942年6月8日 東武鉄道は、熊谷〜新小泉間13.8kmの鉄道敷設免許を得る。
昭和17年7月20日 1942年7月20日 国鉄東京鉄道局長に高崎線乗越橋梁架設承認願い提出。
昭和17年8月13日 1942年8月13日 大川村〜熊谷間工事施工に要する書類を添えて、工事施工許可申請書を鉄道大臣に提出。地方鉄道法第16条による道路および河川等について、埼玉県および群馬県のそれぞれの管理者に対して占用許可願を提出し、許認可を得る。
昭和17年8月20日 1942年8月20日 国鉄東京鉄道局長により高崎線乗越橋梁架設工事が承認される。
昭和17年11月20日 1942年11月20日 監第2893号をもって鉄道大臣より工事施工認可を受ける。この認可書には「本工事は昭和18年5月19日までに着手し、昭和20年5月19日までに竣工すべし」と付記されている。
昭和17年12月1日 1942年12月1日 東武鉄道は、熊谷線建設工事の現場工事管理監督のため、臨時建設部熊谷出張所を熊谷市上石原町に設置する。その後、請負業者鹿島組も、熊谷市石原町に出張所を設定する。
昭和17年12月10日 1942年12月10日 熊谷駅内秩父線ホーム使用について、秩父鉄道社長と東武鉄道社長で協定書を交換する。
昭和17年12月20日 1942年12月20日 熊谷線工事施工認可される。
昭和17年12月20日頃 1942年12月20日頃 府県道熊谷ー妻沼線および荒宿ー籠原停車場線との立体交差を平面踏切道としたい旨を関係係当局に願い出ていたが了承を得ることができ、妻沼ー熊谷間を一期工事、起点から利根川橋梁工事を含む妻沼駅までを二期工事として施行することに決まる。
昭和18年6月1日 1943年6月1日 利根川橋梁工事施工ならびに路線一部変更認可申請書を運輸通信大臣へ提出する。
昭和18年6月29日 1943年6月29日 府県道熊谷―妻沼線および荒宿ー籠原停車場線の平面踏切道について、鉄道大臣の認可を得る(奈良の踏切)
昭和18年7月 1943年7月 戦局が苛烈となったため、軍より、昭和19年3月竣工予定を、昭和18年12月に繰り上げて竣工するよう命じられる。
昭和18年9月15日 1943年9月15日 軌道工事着手。出張総人員285名。
昭和18年9月 1943年9月 妻沼・大幡領駅舎の本屋、待合室、社宅は、鹿島組に請負工事として施行。
昭和18年10月 1943年10月 渇水期でなければ工事ができない橋梁・溝橋工事に着手する。
昭和18年11月 1943年11月 熊谷市内の鉄道敷設には、秩父鉄道と協定し、熊谷停車場構外線を期限付きで借受け、仮本線として使用しながら、熊谷ー妻沼間10.1kmの第一期工事が終了する。
昭和18年12月4日 1943年12月4日 妻沼・大幡両駅の本屋・待合室・社宅等、鉄道省の竣工検査終了する。旅客輸送の許可を得る。
昭和18年12月5日 1943年12月5日 熊谷-妻沼間完成し、営業を始める。動車2軸の旧式蒸気機関車、2Bチング機関車を使用。
昭和19年3月8日 1944年3月8日 利根川橋梁工事施工ならびに路線一部変更認可申請について、鉄業監第269号を以て運輸大臣の許可を得る。「昭和19年4月7日までに着手し、昭和20年9月7日までに竣工すべし」と記される。
昭和19年3月20日 1944年3月20日 工事着手届を運輸通信大臣に提出。第一期工事終了後、工事事務所を妻沼駅構内に移転し、第二期工事の準備に入る。
昭和19年6月 1944年6月 第二期工事を、鹿島組に工事請負を特命し、6,533,000円の予算で施行。
昭和20年8月15日 1945年8月15日 終戦。
昭和22年2月10日 1947年2月10日 第二期工事は、利根川橋梁工事の途中で、治水上直ちに中止することができなかったため、利根川上流河川管理事務所と協議の上、工事中の橋脚基礎、橋台、橋脚は完成させる方針を決定する。
昭和22年7月 1947年7月 橋脚完成させ、一切の工事を終了し、建設事務所を閉鎖する。
昭和29年2月10日 1954年2月10日 蒸気機関車から、クリームとコバルトブルー2色に塗り分けられた最新型ディーゼルカーのキハ2000型に変更。熊谷-妻沼間が24分から17分に短縮され、1日7往復が14往復にとなる。
昭和29年12月 1954年12月 大幡駅が無人駅となる。
昭和36年10月30日 1961年10月30日 熊谷市・妻沼町・太田市・大泉町など13市町村が加盟する、東武鉄道妻沼・大泉線貫通促進期成同盟会が発足する。
昭和36年〜43年 1961年〜1968年 東武鉄道は数10回に渡り運輸省、国鉄本社等に、妻沼・大泉線建設を陳情する。
昭和43年12月2日 1968年12月2日 国鉄関東支社長は現地を視察し、建設の意向を表明する。
昭和44年2月9日 1969年2月9日 東武鉄道は、東武鉄道妻沼・大泉線建設の意向を言明する。
昭和44年8月25日 1969年8月25日 東武鉄道は、東武鉄道妻沼・大泉線建設の意向を明らかにする。
昭和44年8月27日 1969年8月27日 東武鉄道より5ヵ年のうつには工事に着手し、完成に近づけたい考えがあると説明。
昭和44年9月4日 1969年9月4日 国鉄と東武鉄道で話し合いがもたれ、東武鉄道に権利があるので国鉄は手を出さない、東武鉄道の協力要請があれば応ずる、東武鉄道が権利放棄すれば、国鉄が建設しても良い、太田に貨物駅を設けたい等協議がまとまる。
昭和44年9月8日 1969年9月8日 東武鉄道は群馬県に妻沼線建設構想を示し、県の協力を要請し、知事は協力を約束する。
昭和44年12月18日 1969年12月18日 東武鉄道は群馬県知事に、貨物ヤードの用地買収を富士重工に正式に申し入れた件、また国鉄と協議中であると説明。
昭和45年12月3日 1970年12月3日 中島源太郎、鴨田宗一、熊谷市長、太田市長、妻沼町長、大泉町長、東武鉄道、国鉄等により協議。東武鉄道は、着工の時期は確定していないが、建設はしたい。事業費は50億円であり、地元と国の協力を得たいと回答。国鉄は、熊谷駅の改良に3億円、工期は1年、太田貨物基地は周辺の貨物扱いの集中一本化が必要であり、地元の協力を得たい旨回答。
昭和46年2月18日 1971年2月18日 国鉄と東武鉄道協議。国鉄は、東武鉄道が施行するとしても難しいので、地元の協力が必要と述べる。東武鉄道は、単独施行は無理であるので、新会社案を検討していると回答。
昭和46年8月25日 1971年8月25日 国鉄、東武鉄道、群馬県、太田市長協議。国鉄としては、東武ペースに合わせて熊谷の連絡設備を行う。東武鉄道は、経営形態等も含めて検討している。素案が出来たら県および地元に相談すると回答。
昭和47年10月26日 1972年10月26日 群馬県の9月議会で取り上げられ、早期完成を目指して、知事・議長名で陳情することとなり、東武鉄道に12月までに結論を出してほしいと要望する。東武鉄道は、籠原と石原に貨物基地が出来、貨物の流れが変わることになり建設が難しくなっている。放棄することは簡単だが、何とか完成させたいと考えていると述べる。
昭和47年12月27日 1972年12月27日 東武鉄道単独による建設は困難であり、関係地方公共団体の出資による会社設立の構想を提示するが、東武鉄道と国鉄の調整がつかず、建設が不可能となる。国鉄は10月に西熊谷貨物駅建設を決定した。
昭和48年1月18日 1973年1月18日 運輸省、国鉄より県が状況を聴取。運輸省より、東武鉄道は別会社案が無理であれば敷設免許を放棄する旨伝えられたとし、国鉄は、国鉄がレールの無い所に貨物駅を作ることは困難であり、東武鉄道と話し合いがつかなければ、国鉄が建設することはできないとする。
昭和48年2月7日 1973年1月18日 国鉄は、45年12月3日の協議通り、東武鉄道が建設すれば国鉄が受け入れる方針に変化が無いこと、熊谷駅には、国鉄、秩父鉄道、東武鉄道が入っている。熊谷市は三者の乗り入れを要望していると述べる。
昭和48年3月29日 1973年3月29日 群馬県議会より、知事あてに建設促進について意見書が提出される。
昭和48年4月12日 1973年4月12日 東武鉄道妻沼・大泉貫通促進期成同盟会開催。東武鉄道は、昭和49年9月には敷設権の更新申請はしない、熊谷線の37億円の建設費は東武鉄道としては苦にならないが、その後の運営が問題であると述べる。
昭和49年7月 1974年7月 東武鉄道は妻沼・大泉線の鉄道敷設権を放棄することを決定。
昭和49年8月20日 1974年8月20日 東武鉄道は、未開業区間の工事竣工期限が昭和49年9月7日なので、建設を断念する、運輸大臣あてに営業未成線廃止の許可申請を提出する。
昭和49年9月7日 1974年9月7日 東武鉄道は、運輸大臣より、廃止の許可を得る。
昭和51年5月 1976年5月 東武鉄道は、大幡駅の切符販売を個人に委託する(昭和58年5月31日まで)。
昭和52年4月1日 1977年4月1日 旧大幡駅舎取り壊され、新しくホームもアスファルトになり、待合室とトイレが使用開始となる。
昭和53年2月19日 1978年2月19日 熊谷地区労、県運輸労協、社会党熊谷支部代表は、「妻沼線廃止に反対する会」を結成。
昭和53年2月20日 1978年2月20日 「妻沼線廃止に反対する会」は、熊谷市役所を訪れ、妻沼・大泉線貫通期成同盟会に、東武妻沼線の延長と利用度を高めるため中間駅の新設運動を協同で進めたいと申し入れる。
昭和53年2月24日 1978年2月24日 東武鉄道は、熊谷市長を訪ね、利用者が減少して経営が苦しくなっているので、利用者増など条件が変わらない限り近い将来廃止せざるをえないと通告。
昭和53年2月28日 1978年2月28日 妻沼・大泉線貫通期成同盟会は、廃止反対について協議し、代表者が東武鉄道本社を訪れ、文書で反対を通告するとともに、埼玉・群馬両知事に協力を申し入れることを決める。
昭和53年3月2日 1978年3月2日 妻沼・大泉線貫通期成同盟会長及び熊谷市議会議長が、「熊谷線存続及び延長幹線化」について、東武鉄道及び埼玉・群馬県知事に陳情する。
昭和53年3月18日 1978年3月18日 熊谷市議会で、熊谷線廃止反対に関する決議をする。
昭和53年6月20日 1978年6月20日 「妻沼線廃止に反対する会」は、熊谷市長に東武鉄道熊谷線存続のため新駅設置を申し入れる。
昭和53年8月7日 1978年8月7日 東武鉄道は、利根川橋梁の橋台、橋脚、基礎井筒等の構築物撤去工事を建設省関東地方建設局に委託申請する。
昭和54年3月31日 1979年3月31日 利根川橋梁構築物撤去工事の申請が受理され、昭和54年3月31日までに工事を完了する。
昭和55年8月19日 1980年8月19日 東武鉄道より、県知事、県議会議長、熊谷市長、熊谷市議会議長、妻沼町長、妻沼町議会議長あてに文書で「同線は年々大幅な赤字を出し、持ちこたえられないので廃止せざるを得ない。同線を廃止し、バスを増強することによって肩代わりしたい」との通告が出される。
昭和55年9月9日 1980年9月9日 妻沼・大泉線貫通期成同盟会の正副会長会議が開催され、東武鉄道の通告に対し「あくまでも反対」の態度を決め、強力な反対運動を展開することを申し合わせた。
昭和55年10月30日 1980年10月30日 妻沼・大泉線貫通期成同盟会長は、東武鉄道本社と運輸省に「妻沼線の廃止反対」を申し入れる。
昭和55年11月10日 1980年11月10日 妻沼・大泉線貫通期成同盟会は熊谷市役所で埼玉・群馬両県の12市町村を集め総会を開き、同線の早期貫通と幹線化に向けて引き続き強力な運動を展開すること、東武及び関係機関に陳情を行うこと、新駅の設置対策(田島・奈良・大原駅)、利用者の意向調査を実施すること、両県で協議して同線の再生を検討することを決めた。
昭和56年2月10日
 〜2月23日
1981年2月10日
 〜2月23日
妻沼・大泉線貫通期成同盟会は、熊谷線の廃止問題について沿線住民、利用者等1100人に意向調査を実施し、東武鉄道が熊谷線廃止の代わりに提案しているバス路線増強より、存続を望む声が83%となる。
昭和56年6月4日 1981年6月4日 東武鉄道は、熊谷市・妻沼町に「熊谷線の廃止許可申請を運輸大臣に提出する」と文書で通知する。
昭和56年7月24日 1981年7月24日 「妻沼線廃止に反対する会」代表ら6名は、運輸省民営鉄道部長に3,000名の反対署名を添えて熊谷線廃止を認可しないよう陳情する。
昭和56年8月11日 1981年8月11日 「妻沼線廃止に反対する会」は、妻沼町の『運転休止もやむを得ない」という態度の軟化に対し幹事会を開き、今後の反対運動の方針を協議。その結果、沿線各駅周辺で約5,000枚のビラを配る等、住民ぐるみの反対運動を推進することに決定。
昭和56年8月30日 1981年8月30日 東武熊谷線廃止問題について、大幡公民館において市長と住民との対話集会が開かれる。
相和56年10月6日 1981年10月6日 妻沼・大泉線貫通期成同盟会の定期総会が開かれ、執行部から、現在の熊谷線を大泉町まで延長して、埼玉・群馬両県と期成同盟会加入市町村などが新会社を設立して運営する「第三セクター方式」の経営収支調査委託を、埼玉県に委託したいと提案される。
昭和56年12月7日 1981年12月7日 上越新幹線熊谷新駅の設置に伴い、熊谷市では、秩父鉄道、東武鉄道の代表者による三者会談が開かれる。北口と南口を結ぶ自由通路の設置について、秩父鉄道は「秩父鉄道熊谷駅の一部を使用している東武鉄道熊谷線の発着を未解決のまま、秩父鉄道の敷地をまたぐ市の一方的な自由通路建設案は受け入れられない。」と反対。東武鉄道は、「東武熊谷線を廃止できなければ駅の使用は即刻返上する」と意思表示する。
昭和56年12月23日 1981年12月23日 熊谷市議会では、12月定例会で、昭和53年3月の「東武鉄道熊谷線廃止反対に関する決議」を白紙撤回する議案書を上程し、賛成多数で可決される。
昭和57年5月27日 1982年5月27日 熊谷市長は、市議会全員協議会で「存続の見通しがつかず、廃止せざるを得ない」と述べ、熊谷線の廃止許可申請に同意する。市は、来年5月31日限りで廃止すること、代替バス運行、廃止後1年間は鉄道と同額にすること、廃線敷など東武所有地を市が無償で借り受け、市による道路使用を了承するの4点で東武鉄道と合意する。
昭和57年5月29日 1982年5月29日 妻沼線廃止に反対する会代表17名は、熊谷市長、妻沼町長に両市の方針決定について抗議し、昭和58年5月31日限りとする期日の延長を要望する。
昭和57年6月11日 1982年6月11日 東武熊谷線廃止問題について、大幡公民館において市長と住民との対話集会が開かれ、周辺住民80名が参加。住民側から、代替バスの大幡駅前乗り入れ、妻沼ー大幡ー籠原駅間のバス運行便の新設、地元地区民に対する迷惑料の支払い、市が地元地域振興を強力に行うことなど要望を提出。
昭和57年7月5日 1982年7月11日 熊谷線廃止に反対する会は、熊谷市長に代替バスの措置など8項目の要請書を提出。
昭和57年9月14日 1982年9月14日 熊谷市長、妻沼町長が廃線に同意したので、東武鉄道、熊谷市、妻沼町三者が県庁において、県知事立会いのもとに「熊谷線は昭和58年5月31日限りで廃止し、6月1日から代替バスを運行させる」等盛り込んだ協議書と覚書に調印する。
昭和57年10月19日 1982年10月19日 東武鉄道は、熊谷ー妻沼間地方鉄道営業廃止許可申請書を運輸大臣に提出。
昭和58年4月15日 1983年4月15日 熊谷ー妻沼間地方鉄道運営業廃止が許可される。
昭和58年5月1日 1983年5月1日 東武鉄道は、お別れセレモニーとして、記念乗車券の発売、記念メダル作成、記念スタンプ押印を行う。
昭和58年5月21日
 〜5月31日
1983年5月21日
〜5月31日
鉄道友の会やファンからの申し出により、車両の前頭部に「さよなら熊谷線」のヘッドマークを掲げる。
昭和58年5月31日 1983年5月31日 熊谷駅では、午前9時30分、秩父鉄道熊谷駅ホームで、熊谷市主催の「お別れ会」が開かれ、最終列車到着後の午後9時22分頃から、妻沼町主催の「お別れ会」が開かれる。5月31日の乗客数は8100人、最終列車には200%の400人が乗車。
昭和58年6月1日 1983年6月1日 東武熊谷線廃線。東武熊谷線40年間の利用者2600万人。午前7時、妻沼駅構内で急行バスの開通式が行われる。キハ2001号は、東武動物公園へ展示のため、熊谷駅から機関車にけん引され羽生経由で東武動物公園へ。キハ2002号は、クレーンで吊上げられ、妻沼町中央公民館へ展示のため移転。
昭和58年7月21日
 〜7月27日
1983年7月21日
〜7月27日
船橋東武デパートで、「東武ジャンク市」が開催され、気動車キハ2003号をはじめ信号機、信号灯など東武熊谷線に関する部品が即売される。
昭和61年9月25日 1986年9月25日 17号国道、140号国道をまたぐガードが撤去される。
平成3年8月26日 1991年8月26日 東武熊谷線跡地4.526mに「緑道」完成。
平成3年11月18日 1991年1月18日 新しい鉄道建設を目指す「埼群軌道新線建設促進期成同盟会」が発足。3市9町で構成、会長太田市長、副会長に熊谷市長・妻沼町長が選出される。
平成3年11月18日
 〜3月1日
1991年11月18日
〜3月1日
熊谷市立熊谷図書館で「写真にみる東武熊谷線ーなつかしの妻沼線40年のあゆみー」展開催される。
平成17年11月29日 2005年1月29日 熊谷商工会議所副会頭が発起人となり「熊谷市埼群軌道新線を実現する市民の会」が発足。
平成19年2月6日
       〜9月2日
2007年2月6日
〜9月2日
熊谷市立妻沼展示館にて、「妻沼線と熊谷空襲展」開催される。