星溪園の石造物

④ 袖振り石

現在「袖振り石」と呼ばれていますが、かつては「誰ヶ袖手水鉢(だれがそでちょうずばち)」と呼ばれていました。
文禄の役(1592-1593)の際、加藤清正が朝鮮から、「天柱石」とともに持ち帰ったと伝えられる石で、忍城主の松平忠吉が譲り受け、明治4年に竹井澹如が引継ぎ、星溪園に設置しました。
以前は、両袖があるような形をしていましたが、現在左袖は落ちてしまい、右袖だけの片袖となっています。

袖振り石

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   以前の袖振り石


明治11年(187891日、明治天皇の北陸東海巡幸に際し、熊谷驛の行在所となった竹井家が天覧に供した由緒書上にその由来が記されています。

「一 誰ヶ袖手水鉢 其形袖ニ似タルヲ以テ之ヲ名ツク」
「右ニ品ハ、文禄年間征韓ノ役鬼上官城ヲ陥レ之分捕シ、帰朝ノ後此ヲ豊太閤ニ大阪城ニ献ス、元和二年落城ノ節、徳川内府旧忍城松平忠敬ノ祖先忠明ヲシテ該城ヲ守ラシム、爾来忠明ノ子孫転封ノ日必ス二品ヲ随ヒテ之ヲ珍重ス、最後忍城ヘ転封ノ時モ亦之ヲ齎シ来レリ、明治四年廃藩置県ノ際、城主東京ヘ移住シ名石ノ城中ニ在テ長ク堙滅センコトヲ哀ミ臣ニ命シテ曰ク、汝ハ我領内ノ旧家タルヲ以テ今此ノ二品ヲ汝ニ譲與ス、慎テ之ヲ守リ汝ノ家ト長久ナラシメヨト、笄石ハ元長サ六間餘ナリシカ、桑名ヨリ忍城ヘ転封ノ際運送不便ヲ以テ折テ五枚トナルト云フ 熊谷驛竹井耕一郎父 竹井澹如」

大意は、「誰ヶ袖手水鉢(袖振り石)は、その形がその形に似ていることから名付けられた。秀吉の朝鮮出兵の際に持ち帰ったもので、大阪城の秀吉に献上され、落城の際家康が松平忠明に守らせ、以後その子孫はこの2石とともに転封し、最後は忍城ヘ移った。明治4年廃藩置県の際、城主は、竹井湛如にこれを譲与した。笄石は、元は1つの石であったが、桑名から忍へ移動の際5つに折れてしまった」と記されています。
ちなみに、詠人知らずの「色よりも 香こそあはれと 思ほゆれ 誰が袖 ふれし宿の 梅ぞも」という和歌が『古今和歌集』にあります。袖の形に似ており、この歌から「誰が袖」と名付けられたのかもしれません。

【参考】 2024年 熊谷市教育委員会 『熊谷自由民権運動史料2 「七名社」の時代 続編』熊谷市史料集8


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