星溪園の由来を記した碑。
撰文は、竹井耕一郎 (1868-1945)、書は酒井天外(1875-1942)。
造立年:昭和8年(1933)・令和5年(2023)再建
石質:(旧)安山岩・(新)花崗岩
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竹井澹如(1839-1912)が池を整備し樹木を植え庭石を配し、茶室を設けたことが記されています。
以前の碑は安山岩(根府川石)製でしたが、劣化が進行したため、令和5年に、現在の花崗岩製に再建しました。
【銘文】
「星溪ハ先君澹如翁ノ経営に係レリ水ノ玲瓏タルヲ以テ往昔玉ノ池ノ穪アリキ潭ヲ遶テ草木鬱茂一境奥邃或霊物ノ窟宅スル所トナリシテ人漫ニ遊ハサリシカ明治ノ初先君慨然百方力ヲ用ヰ榛奔ヲ剪リ蕪穢ヲ除キ石ヲ移シ橋ヲ架ス是ニ於テ巨樹聳エ美竹露レ塢出テ嶼横ル俯シテ窺ヘハ底砂鮮明泉眼数十水坌湧シテ昇ル清夏ハ厳冷タニ霧ヲ結ヒ玄冬ハ和温暁ニ煙ヲ浮フ魚大小数百アリ空遊シテ相楽ム其混々トシテ流出スルヤ市内ヲ東進シ終ニ農村ニ灌漑ス園内瀟洒タル水亭茶室ヲ設ケ更ニ幾多ノ古塔珍石ヲ配ス就中往時加藤清正韓国ヨリ齎シ帰リテ豊臣秀吉ニ献シタル天柱石袖振石等アリ流憩ノ際塵懐ヲ一洗シ心目ヲ楽マシムルニ足ル年ヲ重ネテ経営成リ関東ノ名勝タリ明治十七年八月八日□皇后陛下鸞駕ヲ駐メ給ヒ林泉ノ美ヲ愛セラレ亭ニ舟御遊観刻ヲ移シ給ヒタリ後大正十年九月十六日夜敦宮殿下名月ヲ中州ニ賞セラレタリ當世ノ鉅公名流文士墨客前後来リ遊ヒ幾多ノ題詠ヲ留ム星溪ノ称ハ先大徳牧宗禅師ノ撰ヒシ所ナリ家ハ會テ明治大帝御臨幸ノ栄ヲ辱フセシカ明治十七年夏祝融ノ災ニ遭ヒ今ハ星溪ヲ以テ居宅トナスト雖モ敢テ此名勝ヲ羨ニセス遊覧ヲ欲スル者アレハ喜テ之を迎フ蓋シ君實ノ獨楽ヲ欲セス竊カニ孟子ノ所謂偕楽ノ意ニ尊フモノトス
園矣好優遊 家在中山驛路頭 布置亭台都瀟酒 乱栽花竹補清幽 曾経高館留鑾駕 又見籬門邀貴候 最是天然難得事 湧泉碧漲可浮舟
兒 耕一郎 識 瑞石 謹書」
と刻まれています。
【漢詩書きおろし】
「家の後ろにある庭園は、広々としてゆったりと遊ぶのに好ましいであろうか。
邸宅は中山道の直ぐ傍にあり、都の洗練された四阿や展望台が配置されている。
かつて、高館には皇族が使用した馬車が留め置かれている。
又、高貴な方を迎える籬門が見える。
有泉は碧き水をたたえ、舟を浮かべて遊ぶのに相応しい。」
竹井耕一郎(1868-■):法学者、文人。竹井澹如(1839-1912)の長男。星溪と号す。東京府第一高等中学校、東京帝国大学、同大学院と進み、憲法学を専攻した法学士。卒業後は、早稲田大学、一橋大学で憲法学の講座を持ち、新進気鋭の学者として名をはせた。著作に「帝国憲法論」「行政注汎論」がある。教授時代は、牛込区(現新宿区内)に居を構えたが、肺疾患を患い、憲法学者としてのキャリアは途絶えた。
また耕一郎は、漢籍の造詣深く、詩文に優れていたことから、文化人・趣味人として残りの反省を生きた。神奈川県大磯町東小磯に別邸を設け、悠々自適の生活を送った。
昭和5年(1930)には、池亭(現星溪園)に積翠閣を新築している。禅学に興味を示し、成道会を主宰し、毎月1日に池亭内で専門家を招いて例会を催すなど、「熊谷」を文化的な活動拠点とした。
酒井天外(1875-1942):郷土史家。市内筑波町に生まれる。本名惣七、号は天外、書は瑞石と号す。醤油醸造業を営み、金丸星醤油会社五代目を継ぐ。書を松丘友石に師事。社会教育に熱心で、青少年補導育成に紙芝居12篇を作成し市内各所に拍子木を鳴らして回った。昭和10年、結成された熊谷郷土文化会副会長に就任。主な著書に『熊谷百物語』『忍城戦記後刊』『熊谷薄生物物語』『秋山要助伝』などがある。
小野湖山(1814-1910)漢詩人。大沼枕山(1818-1891)、鱸松塘(1824-1898)とともに、明治の三詩人と称された。