『めぬま郷土かるた』で振り返る 我が郷土 妻沼



実盛木像(歓喜院)

西野の中世館跡(実盛塚として伝わる)
聖天山を開き、領民に慕われた実盛公
木曽義仲との人間無常・悲劇の結末
「妻沼聖天山」を開いた斎藤別当実盛は、大治元年(1126)越前の河合斎藤家に生まれ、同族の長井斎藤実直の養子となり長井庄(妻沼地方)に移り住んだとされています。実盛は、折からの戦乱の世に巻き込まれていきます。源氏の兄弟間の争いで、わずか2歳の駒王(後の木曽義仲)の命を助けた実盛は、源氏方につき保元・平治の乱で大活躍します。その後、領土安堵を条件に台頭した平家方につきました。
実盛公を描いた掛け軸
巻き返しを計る源氏は、木曽義仲が挙兵。勢力を伸ばします。平家方だった実盛は、形勢不利を承知の上で出陣してゆきます。孤軍奮闘の末、勇壮な最期を遂げました。
実盛の死を知った義仲は、昔命を助けられた恩を偲(しの)び、さめざめと泣き、孝養を誓ったと源平盛衰記は伝えています。
白髪を染めて出陣したという実盛の武人としての誇りは、平家物語・保元物語・平治物語でも多くの頁を費やして、実盛の悲劇の生涯を語り伝えています。
平成8年には、聖天山境内に実盛公を顕彰して銅像が建てられました。