読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

12話板井いたいー  

 町の西部一帯、山林・畑地の多い平坦な土地ですが、西から東へ流れる和田川に面して集落を望むことができます。和田川のつくる沖積地は水田としで利用きれ、嵐山町・旧川本町境から県道熊谷・小川線にかけては、古い時代から開墾されているようです。古代の開発、これが「板井」の地名の由来と考えられます。

 「板井」には、地名の由来に関係する証拠が現地に残きれています。ひとつは古代に始まる出雲乃伊波比神社、もうひとつは中世にさかのほる篠場長命寺です。この二例を主題に紹介しましょう。

 伊波比神社は和田川のせせらぎを間近に聴く場所に鎮座しています。周辺の地名に「鹿島」「氷川」があります。水源と耕作地を守る農耕神を祭るには最適の地です。周辺には多くの遺跡が埋れ、古代から人々の住み易い土地であったようです。神話の世界には国造りの頃、出雲の人々が稲を携え東国の開墾にやって釆たとされています。この時代は三〜四世紀頃に符合し、旧江南町内の塩古墳群や周辺の集落の成立と時期を同じくします。以後、素良、平安時代まで集落の安定的な発展を遺跡の調査から知ることができます。

 新しい稲の収穫を祝い、翌年の豊かな稔りを祈願する祭りを新嘗祭といい宮中や出雲大社等で行われます。一般の神社では初穂祭と呼ぶこともありますが内容は同じです。当時、この稲を刈る田は特別な田として区別きれました。伊波比神社では「岩比田」の地名の場所がここに当たると考えられます。岩比田はイワイダのことでイワイは本来「斎・祝」の文字が正しいので、岩比は当て字と考えた方が良いでしょう。

 平安時代の延喜式神名帳に、男衾郡内の官社として出雲乃伊波比神社が記載きれています。大里・比企郡は一社ですが、男衾郡は有力な郡であったため三社あります。

 現在の伊波比神社は江戸時代に、氷川神社であったものが明治時代に先の由緒を基に改めたものです。

 本来の伊波比神社が町にあったであろうことは遺跡や伝承などから可能性は高いと考えられます。板井の地名は、伊波比・岩比の「イワイ」のある地域という地元や周辺地域の認識があったと思われ、「イワイ」から「イタイ」 への地名が定着したと思われます。

 中世には長命寺が有力な修験寺院として突如現われます。京都洛北聖護院に連なる格式の高い寺で、当時の男衾郡だけでなく比企、幡羅、榛沢郡内まで宗務に閑係した権限を持っていました。伝えには、平安時代末期の創建ときれ不動尊を本尊としています。記録は室町時代から明治時代までの古文書が残っています。正式には板井山薬王院長命寺といいますが、篠場の長命寺の呼び名が広まっていたようです。長命寺文書の天文23年(1554年)のものが初見で武州篠場と記されています。

 長命寺は明治の神仏分離により廃寺となりました。寺堂は無くなり、その一郡は現在の出雲乃伊波比神社に使われています。拝殿の障壁画・格天丼の花鳥霊獣図は、元の長命寺の仏堂に使われていたものです。また本堂の不動尊は、北向不動と呼ばれ養蚕の守神との信仰も集めていたようです。現在は宝光寺に移されています。

 長命寺に由来する地名には、桜が関係しています。寺伝に桜の古木があり枯れたのちも植え直し、長命寺桜として守ったといいます。長命寺跡の周囲には桜山・桜ヶ丘の地名が残っています。おそらく長命寺の桜にゆかりを持つ地名と思われます。


 出雲乃伊波比神社の写真
出雲乃伊波比神社

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