読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

1話大里ーおおさとー  

 大里」この文字をなんと読むでしょう。住所を書くときに出会う文字です。「オオサト」と言うことが一般的ですが、じつはこの文字は、以外と古くから使われてきた地名です。

 地名は、ある範囲を区切るとき使う言葉の約束から始まったようで、土地と人の生活が深く結びついてきた米作りの時代(弥生時代)から進んできたようです.ですから地名の由来には、ある出来事にかかることや、平安や豊かな稔りなど、時代じだいの人びとの想いがこめられています。

 「大里」は、千三百年ほど前、奈良時代には荒川の周辺を呼ぶ地名として、使われていました。現在と同様に、行政区分の名称として「大里郡(郡は、コオリとも読まれた)」と当時の記録に残されています。これは、当時の土地台帳に当る文書で、武蔵国大里郡坪付と呼ばれ、荒川周辺の地名が書かれています。

 「」は人や物事をするとき使い、「」を強め讃える言葉となり、「」は田を整然と区分した様子をいい36坪を一里としていました.「」は古代のほ場整備として行われた条里制により、一里は約640〜650m四方の広さがありました。

 「大里」の名は、荒川の流域に果てしなく続くと思われた、みごとな水田地帯に鍬を入れ、豊かな稔りを願った人びとの想いが、目の前の風景と重り、(いなる)と呼んだのでしょう。

 熊谷市柴地区の古代寺院跡(寺内古代寺院)は、昭和二年刊行の埼玉県史で紹介されていますが、この寺跡より「大里郡」の文字を流麗に書かれた布目かわらの発見が伝えられています。       

現在、わたしたちが使う文字となんら変わらない筆使いですが、平安時代としては熊谷市で、もっとも古い文字資料です。

 「大里」に限らず地名の実際の所在地は、長い歴史の中で大きく揺れ動き、ときには新しい地名に変わることもありました。

 つぎの回には、そのようなことを紹介します。


寺内古代寺院跡出土瓦の写真
寺内古代寺院跡出土文字瓦(平安時代)


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