読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

22話堀之内ほりのうちー  

 三本に残る地名「堀之内」の周辺は、西を新押切橋に至る県道に、北を吉見用水路に、南を県道富田・熊谷線に面しています。押切の渡し場と、県道は昔からの交通路ですから、堀之内の周辺は交通の要衝にあたります。明治初年に編さんされた『武蔵国郡村誌』には「堀之内」の広さを次のように記しています。『東西二町四十間・南北一町四十間』ほぼ隅のとれた長方形をしています。

 現在、青々と育つ、麦畑からは堀の存在を窺うことはできませんが、地名のとおりなら、堀が巡り、掘り出した土を土塁状に盛り上げた一画があったと想像されます。

地名辞典や、他地域の例では、「堀之内」というと中世武士の館に由来を求められる場合がほとんどです。のちに、武士の菩提寺となっている例もありました。中世の武士の館は一町四方程の範囲を堀と土塁で囲んだ単純な構造の場合が多く、日常生活をするための主殿や納屋の他に倉・馬屋などがあり、蔬菜類を育てた畑も取り込んでいたようです。このような館を、外から見た場合に「堀之内」と呼ばれたのでしよう。

 当時、三本堀之内」にはどんな武士が住んでいたのでしょうか。伝承は無いのでしょうか。

中世の記録に現れる旧江南町関係の記事はたいへん少ないのですが、町に残された板碑が、欠史をわずかに補ってくれます。
 三本押切の間にあった旧観音堂に、かつて荒川より拾いあけられた緑泥片岩の板碑が徳志者の手によって祀られています。みな鎌倉時代の製作ですが、その一つに次のようを銘文がみえます。
 「正安二年(1300年)武藤刑部尉親直(むとうぎょうぶじょうちかなお)」武藤氏は、御所を警護する役所「武者所」に勤務した武士たちから始まり、代々武藤氏は、警察・裁判に関係した役に就いていたようです。刑部は、警察と裁判所を合わせた役職を持つ役所の名称です。尉(じょう)とは官位名で、今でいう課長級に当たるでしょうか。

 もっともこれらの官職名は、奈良から平安時代まで実際に機能しましたが、武士が政治に強い影響力を持ってきた鎌倉時代以後は有名無実になってしまいます。
 当時、武藤氏は九州一円に勢力を持ち、九州地方の総督府のような役所であった太宰府の少弐(次官級)や国司(知事相当)を歴任していました。武蔵に残る一族もいたのでしょうが、大半の一族は九州地方に根をおろしていたのですから、板碑に刻まれた武藤氏と旧江南町との関係は謎のままです。

 前号で駒形を紹介した折り、熊谷直実の家来、権太の事を記しました。権太については不詳ですが、彼が駒形神社を建てた場所を現在の地名場所に考えてよいならば、「堀之内」は社にもっとも近い館となります。権太は、「堀之内」の館に住んでいたのでしょうか。 武藤氏・権太にしろ、「堀之内」は旧江南町における中世史の一舞台になります。


 堀之内地内に立つけや木の写真
堀之内に立つけや木

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