読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

37話中郷なかごうー  

  野原地区は、早くから開けたむらの一つに数えられます。これは、台地上で何十軒と発見された往居跡と出土した遺物が物語っています。記録に残る最も古いむらは、大化の改新(645年)以降に定められた地方制度により生れています。
 日本中が国郡里に区分されました奈良時代には、里の文字が郷に替えられましたが、大枠では現代でも通用する地名が生きている場合があります。 江南地域は、男衾郡内に入ると考えられますが、後世には大里郡との境界が錯綜しているようです。今から千三百年以前の地名ですから、全く忘れ去られている場合もあり、現存の地名がいつから使われ始めたのかを知るのは大変難しいことです。
  奈良時代の男衾郡には、かり倉・郡家・榎津・多留・川面・大山・幡・中村の八郷がありました。大山信仰との関連から、野原小江川の和田川流域を大山郷と考える人もありますが推測の域を出ません。これらの郷名は、中世の文献にも残っていないようで、郡内のどの地域を指したのか全く不明です。
 古代から中世へ移行するとき、古い地名を捨て新しい地名を必要とするような地域全体を巻き込む大きな変革かあったのでしょうか。しかし、むらを呼ぶ単位にはやはり郷が失われています。
 古代末から中世には朝延の公領と権門勢家の荘園が分立し、有力な武士は荘園の領主に、中小の武士は地頭と呼ばれた荘官になる場合か多かったようです。この頃、町域には春原壮の名が正木文書(貞応三年:1224年)にあり、万吉郷・平塚郷の存在がわかります。鎌倉円覚寺文書(正長元年:1428年)には大里郷小江郷の名がみえます。現在の小江川付近と考える歴史家もいます。
 中世の郷は用水の管理・山野の使用など共同体として強い自治性を持ち、領主の横暴に抵抗することも多かったようです。戦国末期、武川衆知行苑(天正20年:1592年)は老川郷(小江川)・すかひろ郷・野原郷の名がみえます。突然に野原郷の名が出ますが、郷の実態は以前からあったと思われますし、現行の「中郷」の地名とも関係してくると考えられます。野原地区のような、広い地域を迷わず説明するには区域を分けて呼ぶ方法が昔も行われています。基点を決めて東西南北・上中下・前後を使う場合がそれで、かつては野原地内を上郷・「中郷」・下郷のように呼んだ時代があったと思います。現在の中郷は和田川に南面する台地裾付近ですが、ほぼ地区の中程に位置しています。上郷・下郷は使われていないようですが、「中郷」の地名は野原郷に由来し、少くとも中世まで遡る可能性があると考えられます。
 なお、郷は江戸時代の政策の元でより支配の強化された村へ再編成され実体を失っていきます。


 中野原付近遠景
中野原付近遠景

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