読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

21話駒形こまがたー  

 駒形」の地名は、新押切橋に通じる深谷・東松山県道が台地を下る場所をいい、現在の「三本」地区に残る小字名です。町の特徴的な地形「ハケ」に残る斜面林を中心に緑地の整備・保存を行っている「駒形公園」の所在する場所でもあります。

 「駒形」の駒(コマ)は馬のことで、馬の形をした地形や馬に関係した場所で、馬を祀った馬頭観音や駒形神社が鎮座することに地名の由来がありそうです。熊谷市の場合も同様のようです。
 駒形神社は、駒形権現・駒形明神を祭神とし、岩手県(陸中国)水沢市に本社があり、中世以来各地に勧請され信仰を集めたといわれています。
 三本駒形の地名は、江戸時代の記録に現われるのですが、地名の元となった出来事は、鎌倉時代までさかのぼるらしいことが、『新編武蔵風土記稿』などに記された伝承などから推測できます。

 古墳時代から、日本人と馬は深い継りを持って幾時代を経てきました。乗馬のため、労役・運搬の用に、戦いの道具としたこと、競技に競わせたことなど、神話から昔話にいたるまで、人と馬との関係を物語る材料はあまたあります。町に残る「駒形」の由来もその一つです。

 鎌倉時代は、源氏と平家の勢力争いから武士による幕府政治が始まる時代です。武士は、領地を得るため戦場では一族の力を結集して戦うのが常でした。この頃の武蔵武士の活躍は、『平家物語』『源平盛衰記』に記されています。
 『平家物語』の中に、熊谷直実と栗毛の名馬(ごんだ栗毛)の話がみえます。直実は平敦盛を打ち取った一の谷の戦いの時、乗馬を乗り放したのですが乱戦の中、馬の行方が不明になりました。この馬は、直実を慕って遠路武蔵へ帰ってきたのですが、故郷を目前にした「三本」の地で倒れ、死んでしまったそうです。これを知り、馬を憐れんだ直実や周囲の人々が、馬の倒れた場所に駒形神社を建てたのだといいます。
 『源平盛衰記』では、直実が戦いに備えるため権太という家来に命じ、名馬を求めさせるため、馬の産地奥隆国(青森・岩手県方面)へ捜しに行かせました。権太は奥隆国一ノ戸で名馬を見つけ、連れ帰りました。権太栗毛と名付け、源平の戦いにおもむいたといいます。しかし、乱戦の中、馬の腹を矢で射られ、馬は死んでしまいました。これを憐れんで、馬を祭った神社を権太の住む万吉郷の一角に建てたといい、これを「駒形」の場所としているようです。
 両書には、多少の記述の差がありますが、このような伝承は江戸時代まで伝わっていたとみえ、格式・由緒の明らかな神社にしか発行されなかった朱印状が、安穏寺別当駒形明神社へ与えられています。三代将軍家光から伝わる町の指定文化財です。

 いまは、「駒形」の地名は、社を渡唐神社へ移転したため、昔を偲ぶものは地名だけのようです。


 駒形神社に伝わる安穏寺朱印状の写真
駒形神社に伝わる安穏寺朱印状(埼玉県立文書館寄託)

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