読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

8話三本みつもとー  

 「三本」は、町の西北部に位置し、以前は「上新田」の一部を包括していた字地名です。明治四十一年までは「」が正式な名称でした。地形は平坦ですが、荒川と江南台地に挟まれた中位段丘面で「押切」の低地帯より1〜3m程、微高地となっています。

 地名の由来は不詳ですが、「成沢」と同様、水に関係した地名ではないかと考えられています。「」地域の南側にみえる一段高い江南台地を流れ下る雨水は、姥ヶ沢を始め三つの大きな沢へ集中し、台地の縁を流れていた吉野川に注いでいたようです。山の縁から水の湧き出すところ、大雨時に一気に水の出るところという意味の水本(みずもと)ではないかという説明です。

 「三本」の地名を残す記録は、甲斐武田氏滅亡後、徳川氏へ仕えた旧武田氏の家臣団、武川衆に与えた知行地の一つとして慶長三年(1605年、伊奈忠次署名)の文書にみられます。

 当時の文書に三本原と呼ばれた原野があり、入植というかたちで知行地を与えられた旧家臣団は、現在の土地改良というべき新田開発を進めていったと思われます。その結果、村の有力者に成長していったようです。現在も、当時「三本」に定着した由来を持つ旧家を知ることができます。

 「三本」から「千代」へ至る「権現坂(ごんげんざか)」の往来に、「駒形」の小字名が残っています。鎌倉時代に活躍した熊谷直実にゆかりの神社があった場所と伝えられ、この由緒により江戸時代を通じて各々の将軍より朱印状を与えられていました。朱印状は、由緒・格式を持つ寺、神社に与えられ、町では、「野原」の文殊寺と駒形神社(現渡唐神社に移転)に発行されています。

 また、鎌倉〜室町時代に有力者が居住した館らしい跡が「堀ノ内」という小字名にあり、鎌倉時代頃から歴史の舞台に現われて来るようです。


三本地内渡唐神社の写真
三本地内の渡唐神社

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