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             ふるさと再発見地名は語る

   犬飼いぬかいー  

犬飼の地名は現在の三本地区、江南北小学校北側の一帯をいいます。昔から、水田・畑地が大部分を占めていた場所のようです。隣接する三方の地名も「田」が付いたり、耕作地を意味しています。

「犬飼」は「犬養」と同意です。元々の由来は、古代の朝廷に仕えた職業民の一つである「犬養部(いぬかいべ)」に出自を持つ氏族の姓名とされ、これらの人々が住んだ土地もそう呼ばれました。犬養部は安閑天皇(6世紀初頭)の頃、設置されたと考えられています。このような専門職業団には「馬養部」「牛養部」「鵜養部(うかいべ)」などもまとめられていたようです。

「犬養部」は文字通り、犬を飼育し、その犬を自在にあやつることを得意としていました。具体的な任務には、朝廷の財物を貯えた大蔵・屯倉(みやけ)などの倉庫や、数ある宮城諸門の警備に着いていたようです。このような職業民は朝廷に直属していたので、朝廷の勢力拡大と共に地方へ派遣されることがしばしばありました。奈良時代以降は国家の地方支配の拠点として、国ごとに国府(現在の県庁に相当)が設置されると中央派遣の役人が多数任地へ赴いています。

安閑天皇の時代、熊谷市を含む武蔵国は武蔵国造家の争乱という大事件が起きました。日本書紀に記された顛末は次のようなものです。武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)は同族の小杵(おぎ)とその地位を争い、小杵は上毛野君(かみつけののきみ)に援助を求めた。一方、使主は天皇に援けを求め、ついに小杵を倒して地位を守ることができた。そのため彼は、お礼として4ヶ所の土地を屯倉(朝廷の直轄地)として天皇に献上したという。この事件以後、朝廷の勢力が武蔵へ入り込んできます。屯倉の管理者は当然、天皇家直属の者達であり、多くの職業集団を率いてきたことは想像に難くありません。このような屯倉と考えられる場所に現在の比企郡吉見町周辺が揚げられています。また、管理者の長は壬生吉志氏(みぶきしうじ)であったとも推測されています。壬生吉志は後の平安時代には男衾郡の長官職である郡司を務めるなど、中央派遣の出自を持ちながらも勢力・財力を貯え、在地の有力者に成長しています。その故地は寺内廃寺(花寺)のある熊谷市板井周辺と推定されています。

犬養(飼)を地形起原の地名とすると谷間の沼地を指す語の転化変形とする可能性を、また別案では、近世にできた乾(いぬい)(北西)の方角に拓かれた開墾地を意味する乾開(イヌイカイ)→イヌカイへの変化ではないかと考えます。しかし、三本の集落からみて東方と方角が異なることや、開発者の名が付いていないなどの点から、疑問が残ります。


現在の犬飼付近
現在の犬飼付近

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