熊谷直実・法力房蓮生法師の生没年はいつですか?

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 熊谷直実・蓮生法師の生没年にはいくつかの説があります。
 生没年を調べる時に、大きな手がかりとなるのは、その家に伝えられている「系図」です。ただし、熊谷氏に関して言えば、現在までに伝えられている主な「系図」だけで五種類もあります。
 これらの「系図」を見ると、生年に関しては、数多くの記録で永治元年(1141)生まれであると記されていますので、だいたいこのぐらいの年に直実・蓮生法師が生まれたであろうことが推測できます。
 しかし、没年さらには享年に関しては、それぞれの記録で全く違ってきてしまいます。没年に関しては、承元元年(1207)から承元三年(1209)の9月4日か9月14日、享年はそれに対応した年齢ということになります。
 また、没した場所についても様々な説が伝えられています。代表的な説は、『吾妻鏡』の説と「法然上人行状絵図」四十八巻伝のうち第二七巻の説といえるでしょう。この二つの資料の記述から、直実・蓮生法師が没した場所は、京都東山(現在の蓮池院熊谷堂のあたり)と、武蔵国村岡の市(現在の熊谷市村岡のあたり)の二つの説が伝わっていることがわかります。
 さて、どちらの説が正しいのか?と問われると、大変難しい問題となります。『吾妻鏡』は鎌倉幕府が編纂したとされる歴史書ですし、「法然上人行状絵図」四十八巻伝は、浄土宗の開祖法然上人とその弟子たちの業績について、様々な資料・古文書に取材しながら描かれたことがわかっています。また両方の資料とも、成立した年代が、現在の研究では一四世紀初めの頃と考えられていますので、実際に直実・蓮生法師が亡くなった時に作成された資料ではありません。
 しかしながら、直実・蓮生法師が浄土宗の教化のために、様々な土地へ赴いて多くの民衆にその教えを説き、また『平家物語』に表されるような武士として、さらには浄土宗の僧侶として、全国各地にその人となりに関する人気の広がりがあることがわかりますから、没した場所についても、このような様々な伝承の中で、現在に伝わってきたものと考えられます。