常設展示室/寺内古代寺院跡の部屋

寺内古代寺院跡Q&A
だれが建てたの?
 寺内古代寺院をだれが建立したのかについての記録は一切残っていませんので不明です。ただし、これだけの規模の寺院を建立することの出来た人物となると非常に限られてきます。
創建は、8世紀半ばですが、9世紀前半に伽藍の整備・拡張を行っていることが発掘調査で確認されており、その時期の男衾郡の大領(たいりょう:郡の長官)に壬生吉志福正という人物がいます。壬生吉志氏は、7世紀初頭に男衾郡に入部した渡来系の氏族であり、かなりの資産家であったことが記録されているこの氏族が、寺内古代寺院の建立に深く関わりがあったと推測することができると思います 。

壬生吉志福正(みぶのきしふくまさ)ってどんな人?
 平安時代:生没年不詳。古代武蔵国男衾郡の大領で、榎津郷(えなつごう)に住んでいました。
 壬生吉志氏は、推古天皇15年(607)に設定された壬生部の管理のために北武蔵に入部した渡来系の氏族と考えられています。男衾郡の開発に努め、承和8年(841)5月7日太政官符において、榎津郷戸主外従八位上の肩書きが確認され、才能に乏しい継成(19歳)と真成(13歳)の二人の息子の生涯にわたる調庸・中男作物(:紙)及び雑徭を前納することを申請し、前2者について認められています。福正は、「父たるの道慈なきこと能わず」を理由に申請し、国司・郡司は「例なしといえど公に益あり」との判断で許可しています(類聚三代格)。
 また、承和12年(845)には、神火で焼失した武蔵国分寺の七重塔の再建を申し出て認められています(続日本後紀)。ちなみに現在、七重塔を造るとなると金額は100億円近い金額がかかると推定されています。
以上のことから、福正は仏教に対し深い信仰心を持ち、家庭的であると同時に、大変な資産家であったことがうかがえます。
 榎津郷が現在のどこに比定されるのか確定していませんが、旧江南町から川本町にかけての荒川に沿った地域の可能性が高く、福正と同時期に存在したことが確認されている寺内古代寺院跡は、福正の氏寺であった可能性も指摘されています。

男衾郡ってどこにあったの?
 郡域は、現在の寄居町から大里町に至る、荒川南岸で、比企郡小川町から和田川流域にかけての一帯と考えられています。郡域の西限は、秩父郡と接する山地に、南限は、滑川町伊古に鎮座する式内社が延喜神名帳により比企郡に所属していたとされることから、そこより北の和田川流域が東部の南限と考えられています。したがって、旧江南町は大里郡に属していました、古代の段階では男衾郡に所属していました。
『和名抄』国郡部によると、男衾郡の郷数は8であり、近隣の比企郡4、横見郡3、大里郡4に比べ2倍以上となっています。
男衾郡には、榎津・カリ倉・郡家・留多・川面・幡多・大山・中村の八つの郷があり、8世紀平城宮出土木簡より余戸里の存在が知られています。

榎津郷(えなつごう)ってどこにあったの?
鹿島古墳群
 男衾郡の大領壬生吉志福正が居住したのが榎津郷とされています。では、榎津郷は現在のどのあたりにあたるのでしょうか。残念ながら、その遺称地が現在まで伝えられておらず、不明といわざるを得ません。
 郷名に「津」とあるので、大きな川に臨む渡し場が置かれていたと考えられます。男衾地方で大きな川となると荒川ということになります。
また、旧江南町と川本町の境に近い荒川右岸、川本町本田に所在する多数の終末期古墳群(7世紀)によって構成される鹿島古墳群があり、壬生吉志一族の墓域ではないかとの説もあります。近年、寺内古代寺院跡に隣接する川本町の百済木遺跡では、8世紀初頭の柵列に囲まれた豪族居宅跡が確認されており、7世紀の初頭に男衾郡に入部したと考えられる壬生吉志氏が居住した地域として、この荒川に面した、旧江南町から川本町にかけての地域を比定して違和感はないものと考えられます。

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