常設展示室/寺内古代寺院跡の部屋

寺内古代寺院跡の遺構

金堂
 金堂と推定される基壇建物跡は、伽藍のほぼ中央に位置しています。基壇の規模は、推定で幅15m、奥行13.5mを測ります。確認された礎石配置から復元される建物は、「三間四面庇付建物」で、寄棟または入母屋造りで、幅5間12m、奥行四間9.8mの建物が推定されています。
この基壇上からは、土師器・須恵器・瓦・塑像(そぞう)仏破片・鉄釘などが多量に出土しています。


金堂     平面図  

講堂
 講堂と推定される基壇建物跡は、金堂の背後に位置しています。基壇の規模は、推定で幅21m、奥行18mを測ります。確認された礎石配置から復元されるたてものは、「三間二面庇付切妻建物」で、幅三間13.5m、奥行二間6.6mの建物が推定されています。最大の礎石は、長さ1.2m、幅1mを測る大きなものが使われていました。この基壇上からは、土師器(はじき)・須恵器(すえき)・鉄釘・銅製鏡・鈴などの遺物が出土しています。

講堂     平面図  

東塔
 東塔と推定される基壇建物は、金堂の東側に位置し、後世の林道開削で基壇の西半分が破壊されています。基壇は、現況で30〜40cmの高さをもち、推定で12m四方の規模が推定されます。礎石は残っておらず、基壇の中央に径2.8mほどの心礎の掘込みが確認されています。基壇上からは、瓦・須恵器・土師器・土師器・鉄釘などが出土しています。

東塔     平面図  

中門
 中門と推定される基壇建物は、金堂の南45mほどの地点に位置しています。基壇は、緑泥片岩を地山に突き刺して区画としており、幅9m、奥行き6.6mの規模と推定され、南側に階段が二段、北側に階段が一段確認されています。推定される建物は、幅三間6.3m、奥行二間4.2mの規模を持つ「八脚門」と推定されます。基壇上からは、鉄製品・土師器・須恵器・塑像仏破片が出土しています。

中門     平面図  

東院集落
 伽藍地の北東側に相当する地域で、竪穴住居跡53軒や掘立柱建物跡等の集落跡が確認されています。その中の竪穴住居跡から、「東院」と墨書された土器が4点出土しており、この地区の建物群が、ある機能を受け持つ寺の施設として「東院」と呼ばれていたことが推定されます。
 小型の製鉄炉が検出され、多量の鉄滓と羽口が出土し、銅滓を出土した土壙も確認されていることから、寺の維持や作業などを主としていた人々の居住兼工房的な性格を有した地区であったことが推定されます。


東院集落     平面図  

区画溝
 寺院地と外界を区画する大溝が確認されています。規模は、北辺で約570m、西辺で約200m、東辺で約170m、上面幅6m、下面幅3m、深さ0.4〜1.2mを測り、断面形態は箱薬研形を呈しています。また、伽藍中軸線延長の北辺部分は、大溝が大きく弧状に張り出しており、寺院地外への通路施設として、北門が設けられていた可能性が考えられます。
この大溝の北西コーナーにおいては、ほぼ直角に曲がることを確認していますが、北辺の溝が分水路状にさらに西側へ延びています。この分岐溝は、大溝壙底面より20cm程上面に壙底面を設定しています。
東辺および西辺の溝は、埋没谷へ移行しており確定されていませんが、この溝に区画される寺院地の面積は、約129,000uとなります。これは、2m前後で共通する諸国に建立された国分寺の区画溝およびそれによって区画された寺院地面積を超える大規模なもので、官寺でない本寺院に、なぜこれほど大規模な寺院地面積が必要とされたのかは、今後検討されなければならない課題です。


区画溝     平面図  


参道
 参道跡と推定される道路跡が、寺跡南側から確認されています。範囲確認調査で300m程の長さを確認しています。路面は、黄茶褐色系の粘質土を叩き締めて路盤とし、直上にローム粒混じりの黒色土を舗装するように載せ、中央の幅9mを道路部分とし、両脇に1m程の側溝を路面とする構造です。上層からは、浅間B軽石と推定される火山灰層が検出されています。
 1996年の範囲確認調査において、約270mの地点の参道上で、瓦を載せたと推定される建物の痕跡(柱穴)を確認しています。
 この参道がどこまで延び、いかなる性格の道路に取り付くのか、解明したい今後の課題です。

参道  

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