常設展示室/石造物の部屋

備前堀再興記碑

備前渠再興記碑

碑面は、県道歩道工事ための移設作業の際に、碑文のほとんどが剥落してしまっています。

備前堀は、慶長9年(1604)に関東代官頭伊奈備前守が江戸幕府の命を受けて開削した用水路で、現在は、本庄市山王堂地区で利根川より取水し、深谷市、熊谷市へ流れ、福川に合流し利根川へと流れます。天明3年(1783)の浅間山の大噴火により、岩石や流木などで川底は平均2メートルも上がり、度々洪水となり、妻沼地域では使用不能となりました。これを幕府に願い出て再興したことを記念して、天保4年(1833)建立したのが本碑です。石材は輝石安山岩(根府川石)。

再興には、吉田市右衛門宗敏が、備前渠用水の復興のために奔走し、金200両の大金を寄付しており、碑文には吉田市右衛門宗敏への感謝の内容が、江戸の名石工「窪 世祥」により刻まれています。

所在地 八木田(備前堀再興記碑公園)
種別 記念碑
造立年 天保4年(1833)
 

備前渠再興記

古之為國者惟水事為重也是以大禹儘力乎溝洫及至戦國西門之遺利史

起興歎其後鄭國為韓延敷歳之命為秦建萬世之功関中逐為天府之國矣

於乎灌漑之利其大矣哉武州幡羅郡有灌漑號備前渠注七萬石有余之耕

田其地係官田概諸侯封内者僅二三區其他悉朝士之采邑犬牙錯而我采

地亦在其中焉慶長九年伊奈備前守忠次命水工引烏川以成此渠因號曰

備前渠猶秦之鄭國渠也越天明三年信州浅間嶽火其災及数十里此時烏

川之水道移而利根川之逆水郤入此地由是旁村廣訴水害干官官憂之寛

政五年命使塞備前渠首也自是失灌漑種不得下地主累年無一石之収税

矧邑民艱苦其可勝道也哉是以失灌漑之邑数請奮興而流末之民亦頻

訴逆水之害争論紛然不止誠育民者之所深悼也有吉田市右衛門宗敏者

本郡下奈良村植邨八郎右衛門采邑里正也素以豪富聞数納金係官以供

郵驛之資官甞賞賜錠銀若干且許稱族帯刀宗敏為人純朴勤身以倹其為

民除害興利若嗜慾然而終不伐其能所甘甞施唯恐人知以是衆推為鉅人長

徳備前渠廢興固無加損乎已而偶聞有妨廢渠復古者奮然感激首唱再興

之挙闔郡素服其徳無一人敢可否者靡然和應因頌于官當此時勘定奉行

石川主水正忠房遠山左衛門尉景晉倶有仁明之稱聴其訴一讞而許焉於

是七萬石余之農夫欣欣相共抃于野殆若大旱得時雨矣及其将経營也宗

敏首出五百金及羽生町場邨里正弥右衛門者亦出三百金以助其費其他

義役以後為羞廢渠不日復舊石堤水閘無一不堅是歳文政十一年也

自是後邑民得以甦息両地主各免大患況亦其流末受余潤者不知幾邨乎

嗟微忠次之先見何以得斯灌漑豊非西門所謂百歳後期令父老子孫思我

者嶼雖然微石川遠山二公宗敏亦安得挙丕功乎洵太平之盛事也予嘉與

邑民永被興功濟物之澤是用刻諸山石以示後祀若夫再興顛末宗敏自録

為若干巻蔵于家故今記其梗概耳天保四載癸巳三月

賜布衣寄合天野昌效撰 大竹培書并隷額  窪世祥鐫


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