若松若太夫(わかまつわかたゆう)(初代) 明治7年〜昭和23年(1874〜1948)

明治7年(1874)、大里郡石原村(現在の熊谷市石原)の農家生まれ。本名は、松崎大助。
家が商いを営んでいた関係で、北埼玉郡星宮村(現在の熊谷市・行田市星宮)の内田馬次郎のもとで数学を学びました。また馬次郎は、説教節の達人でもあり、若太夫は彼について説教節を会得しました。
明治18年(1885)、11歳の時に熊谷の実業家・清水藤左衛門に勧められ、清水旅館で初舞台を踏みました。この口演により将来、説教節で世に立とうと決心し、説教節の家元である薩摩若太夫の許に入門、芳太夫と称し、8年の修行の後に崎太夫を名乗りました。
明治27年(1894)、20歳の時に上京して、三味線の名人・鶴沢紋左衛門に師事し、29歳で若松若太夫を名乗ります。
明治41年(1908)、東京で開催された美音会第五回演奏会が機となり、名声を博しました。そして、渋沢栄一、浅野総一郎、嘉納治五郎ら名士の後援とともに、若太夫自身の努力もあり大成しました。その語り口は、独特の芸風として賞賛され、改良説教節の始祖として全国に名を広めました。そして、聖徳太子奉賛会から武蔵大掾(だいじょう)の名を貰い、各地で口演を行いました。
昭和20年(1945)に石原の松崎宅へ疎開し、翌21年(1946)には熊谷寺(ゆうこくじ)で「若松若太夫親子改名披露大会」を催し、息子である二代目若太夫の襲名披露口演会を開いています。
昭和23年(1948)には佐谷田の不動尊縁日で公演を行っており、これが語り納めとなりました。
同年11月、石原の生家で亡くなり、東漸寺(とうぜんじ)に埋葬された後、多摩墓地に分骨されました。






