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須藤開邦(すどうさきくに)(1854-1933)


政治家・好古家。須藤家は、下野国那須氏の支族と伝えられ、江戸時代には玉作村(現熊谷市)で代々名主を務め、主に兵左衛門を名乗っていました。
開邦は、幼少より学問を好み、地元の漢学塾で学びました。明治7年(1874)には、玉作村の戸長に就いています。明治9年(1876)には、第7大区の学区取締役になり、明治11年(1878)に、熊谷講習学校財務主幹となっています。明治10年(1877)には、根岸武香(1839-1902)とともに吉見の黒岩横穴墓を調査しています。
また、明治11年(1878)に結成された民権結社共同会に参加し、明治17年(1884)大里郡選出県会議員に当選し、明治20年(1887)まで奉職しました。
開邦は、資性格謹で、情に厚く、敬神崇祖の念に徹していました。
晩年には、村内の通学路が悪路のため、玉作から吉見小学校間250m余に、花崗岩の板石230余枚を寄附し敷設しています。大正2年(1913)には、吉見神社に花崗岩製の大鳥居を寄進しています。
また、俗塵を避けて古書を友とし、芳水または魚夫と号し、書画、骨董等に親しみました。大正5年(1916)には、地域の見聞録『桐窓夜話』を著しています。
昭和9年(1934)に、孫の乙丸により「須藤開邦翁碑陰」の墓誌が建てられています。

   
吉見神社大鳥居  同左「大里郡吉見村玉作 須藤開邦」

参考文献

  • 2002 水品洋介「須藤開邦日記・同手扣について」『熊谷市史研究』第14号