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大川平兵衛(おおかわへいべい)(1801-1871)

剣道家。埼玉郡上之村(現熊谷市上之)渡辺家の三男に生まれる。幼名栄次郎。諱は英勝。幼くして、成田家家臣にして上之村名主の小鮒新右衛門の養子となる。剣術に励み、箱田村(現熊谷市箱田)の神道無念流達人の秋山要助の門に入り、文政5年(1822)免許皆伝となる。同年、坂戸町横沼の大川与左衛門の婿養子となり、邸内に道場を設けた。要助没後、箱田村の道場主も兼ね、師範代に峰川雄之進を置いて門弟を指導した。

天保7年(18361月、甲源一刀流第5世逸見長英との試合に敗れたが、同年7月に、甲源一刀流の大橋半之輔との試合に勝ち、名声を高めた。
文久2年(1862)川越藩主松平大和守直克に見いだされ、藩の剣道師範として登用される。慶応2年(1866)直克の前橋転封に伴い、前橋に移る。

明治2-3年頃、前橋藩内の剣術流派の統合により解任され、郷里の入間郡横沼に引き上げ、師範として門弟3,000人といわれた道場を構えた。
門弟の中には、渋沢宗助(1795-1871)、尾高惇忠(1830-1901)、尾高長七郎(1836-1868)など、多くの志士を輩出した。
明治471歳で没す。門人569名により大川家墓地に頌徳碑が造立されている。篆額は、前福井藩主松平慶永、撰文は尾高惇忠。石工は、江戸3大名石工の一人廣群鶴。碑裏には、渋沢栄一、渋沢喜作(成一朗)、尾高惇忠の名が刻まれている。
「日本の製紙王」と呼ばれた実業家大川平三郎(1860-1936)は、平兵衛の孫にあたる。

大川平兵衛と渋沢栄一とのかかわりについて、『雨夜譚』に以下の記述がある。

『渋沢栄一伝記資料 別巻第5』「雨夜譚」1968年:渋沢青淵記念財団竜門社編纂

〔昭和五年五月六日〕

 五.先生が大川平兵衛氏などの御供して武者修業に御出懸になつてゐた時の模様に就いて

「私は小さい時から渋沢宗助に撃剣を教つて居つたが、其時迄は宗助はまだ免許皆伝されてゐなかつたから、表向きは大川平兵衛の弟子と云ふ事になつてゐた。昔は免許皆伝されてゐない中は、弟子をとる訳には行かなかつた。それから後宗助が免許皆伝を受けたから宗助の弟子になつたが、其頃は宗助はまだ新三郎と云つて居つたので、私は神刀無念流 渋沢新三郎門人渋沢栄治郎と云つた。大川平兵衛氏に連れられて行つたのは、俵瀬の萩野と云ふ家であつた。そこに千代三郎と云ふ子があつて、それに稽古をつける事を頼まれたからであつた。内から先生と二人で歩いて行つたが、先生と私の二人分の道具をかつがされて肩が痛くてたまらなかつた。途中で妻沼の町により聖天様に参つて、それから歓喜院と云ふ寺で昼食の御馳走になつたのを覚えてゐるヨ。先方には一週間ばかり泊つて、先生は千代三郎に稽古をつけてやつた。千代三郎と云ふのは弱くて私と稽古をして、私でも押倒せる位であつた。その時先生から『あまりひどい事をするな』と注意され たヨ。」

     
 大川先生墓誌(坂戸市大川家墓所)  碑裏「渋沢栄一 渋沢喜作」  碑裏 尾高惇忠

参考文献

  • 1968『渋沢栄一伝記資料 別巻第5』「雨夜譚」渋沢青淵記念財団竜門社編纂
  • 1982『熊谷人物事典』日下部朝一郎