鯨井治助(くじらいちすけ)(1840-1902)
酪農家。(1840-1902)。治助は、熊谷市本町で、代々塩、油、砂糖を業とする家に生まれました。
明治2年(1869)には、養蚕業の必要性を悟り、輸出用蚕卵紙の製造を始め、横浜港に出荷するようになりました。しかし明治8年(1875)、横浜の倉庫が失火により全焼してしまいました。
治助は、その残務処理で横浜を訪れている際、外国人が牛乳を飲んでいるのを目撃し、牛乳の将来性と乳牛飼育が国策上極めて必要であることを思いつき、すぐに横浜の牧畜家菅生謙次郎から、短角牛一頭を200円で購入して連れ帰りました。そして、家業の塩・砂糖業を辞め、明治8年(1875)、牛乳搾取商開業の認可を得て、埼玉県で初めて牛乳搾取業(くじらい乳業)を始めました。
当初牧場は裁判所の近くの市街地にあり、牛を多く飼育するには適しませんでしたが、明治20年(1887)に、旧熊谷堤の南(現宮前町1丁目)に移転して、乳牛を10頭に増やし営業を拡大しました。明治22年(1889)には、内国観業博覧会へ乳牛二種を出品し、有功賞を受賞しました。乳牛頭数は65頭に増え、明治23年(1890)には、支店と組合店7か所、郊外配達所9か所を設けるほどに事業を拡大し、埼玉県における乳牛飼育の開祖といわれるようになりました。
くじらい乳業は、昭和58年(1983)松坂屋建材株式会社が事業を継承し、くじらい乳業株式会社を設立し、現在に至っています。
写真のビンは、諏訪木遺跡から出土したくじらい牛乳のガラス瓶です。正180t瓶で、口径4.3cm、器高13.8cm、底径5.2cmを測ります。瓶正面には、消えてしまっていますが、円形の枠の中に、クジラが潮を吹いているトレードマークの痕跡が残っています。底面側面には「ビタミン添加 鯨井牛乳」と印字されています。このデザインの瓶は、昭和50年代から平成5年頃まで用いられていました。
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鯨井牛乳ビン |
参考文献
- 1983『熊谷人物事典』日下部朝一郎
- 2015『くじらい乳業回顧展』熊谷市立熊谷図書館