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石川弥一郎(いしかわやいちろう)嘉永5年〜昭和5年(1852〜1930)

嘉永5年(1852)、熊谷宿役人、石川八郎右衛門(通称北石川)の家に生まれました。
寺門静軒(てらかどせいけん)から漢学を、戸根木格斉に数学を学び、平堂と号しました。
明治5年(1872)に慶應義塾に入社し、翌明治6年(1873)に熊谷県南八大区学区取締役となりました。
明治8年(1875)、石川が主唱者となり、埼玉県初の民権結社「七名社」が結成されます。
明治9年(1876)、竹井澹如(たんじょ)とともに「進修会」という組織を結成しています。この組織は平穏な集会を重ね、世の中の改良を目指すことを目標に結成されましたが、同年10月に石川が国の地租改正事務局に出仕したため、会の活動の記録もあまり残されていません。
明治11年(1878)、高知県に出張しながらも積極的に七名社に関わり、毎月「七名社通信」と名付けて自らの考えや情報を書き送っていました。また、「阿波通信」という報告書を義弟の竹井懿貞(よしさだ)や七名社員に宛てていました。
明治12年(1879)5月、上司の久野謙次郎に随行して新潟・石川へ出張し、同年12月に単独で石川県への出張を命じられています。
明治14年(1881)、租税局の改革によって各地方に出張所がつくられた際、租税局長野出張所で勤務しています。
そして、明治17年(1884)一等主税属、同19年(1886)兵庫県主税長、奏任官に任じられました。
明治22年(1889)には会計検査院検査官補、そして明治24年(1891)に検査官に塁進し、高等二等に叙せられ奉職25年に及びました。
大正2年(1913)に官を退いた後、郷里熊谷に帰り、郷土史の研究を行うなど、社会教育に貢献しています。また、日本弘道会熊谷支会長として地方志風の隆盛につとめました。
昭和5年(1930)、79歳で亡くなり、熊谷寺(ゆうこくじ)墓地に埋葬されました。

七名社社員集合写真(埼玉県立文書館寄託)
中村孫兵衛 小泉寛則 長谷川敬助 石川弥一郎
鯨井勘衛 稲村貫一郎 石坂金一郎