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原口与五左エ門(はらぐちよござえもん)(■-1696)

原口与五左ェ門は、飯塚村の名主の家に生まれる。生来義侠の念強く、人情に富み名主として常に村民の尊敬を集め、いつも農民の福利を念とし、身を挺して村のために尽くした。
 或る年、干ばつで、上流の村が用水を堰止め渇水甚だしきを見て、与五左ェ門は、憤然として、「水を流したくなければ宜しい。当方にては、御村との境界に大きな堤防を築かん。今後は一滴なりとも悪水を流すこと相成らぬ。」と談判し、上流の村は詮方なく遂に両村和解したと伝わっている。
元禄9年(1696)、度重なる水害による農作物の不作のため、与五左ェ門は年貢を軽くしてほしいと、地頭所で願い出るが、一蹴されたことにより、「自分等の手に依って作れる米を分ち与えん」と自らの蔵を開き村人に与えた。この事は地頭の怒りをかい、父子とも処刑され一家は断絶してしまった。
死後83年後の安永8年(1779)に、村人たちは父子の供養を許されたことにより「郷祖先社宮」として、来迎寺境内に祀った。「郷祖」は「強訴」の意味を兼ね、その行動の強硬なるを称賛する意味に起因するが、当時の地頭を慮り「郷祖」の文字を充てたと言われている。
平成8年7月29日、没後300年に際し、社屋の新築と、頌徳碑を造立している。

熊谷市飯塚来迎寺境内の郷祖先社宮

郷祖先社宮内部の石祠

石祠内の石板「安永八年 郷祖先社宮」

めぬま郷土かるた
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参考文献

  • 『義民・原口与五左衛門』 内田信一  1996年