旧江南町の歴史 扉へもどる
戦国・安土桃山時代 1455〜1600年
1481年
(文明13年)
1月20日 文殊寺、伽藍焼失。
1455年
(康正元年)
公方足利成氏、村岡御陣に在陣。
1461年
(寛正2年)
享徳の乱に際し、成田顕泰、深谷・玉井・別府・岩槻・忍の軍勢を率いて、足立郡見沼に出陣する。
1478年
(文明10年)
正月、古河公方足利成氏、上杉顕定と和睦し成田に陣を引く。7月、古河に帰る。
この頃までに 成田氏、忍城を築城。忍に移る。
1479年
(文明11年)
9月 長尾景春、一時、長井城に入る。太田道灌、久下に出陣、成田氏を救援する。
1480年
(文明12年)
1月 太田道灌、長井城を攻略する。
1500年
(明応9年)
1月 村岡重義、宇佐神社(世田谷区)に神社の縁起と村岡氏系図を奉納する。
1508年
(永正5年)
日向城主嶋田縫殿助、古河公方足利政氏より関宿攻撃についての報告を受ける。
1525年
(大永5年)
成田親泰、銅鈴(市指定文化財)を上之龍渕寺に寄進する。
1533年
(天文2年)
2月9日 久下左近将監・成田氏ら、北条氏綱の求めに応じ、鶴岡八幡宮再興の奉加を行う。
1552年
(天文21年)
4月3日 成田長泰・氏長、妻沼聖天堂を再建する。
1554年
(天文23年)
2月23日 篠場長命寺、聖護院門跡より再興を認められ、源重相続の熊野先達職などが安堵される。
1558年
(永禄元年)
5月 成田長泰、上之雷電宮宝前の扉(県指定文化財)の修理を行う。
1561年
(永禄4年)
上杉謙信に従う武士を記した「関東幕注文」に、成田長泰を筆頭として別府氏・手嶋氏の名が見える。
成田氏、上杉家より離反。手嶋美作守、前橋城を脱出する。
1561-3年
(永禄4〜6年)
後北条軍、上杉謙信との松山合戦に際して、甲山に在陣。
1563年
(永禄6年)
閏12月 日向城主嶋田山城守、羽生城主木戸忠朝より戦功を賞して知行地が与えられる。
1565年
(永禄8年)
3月23日 布施田山城守、北条氏康より深谷での戦功を賞される。
8月〜9月 北条氏康、市田、御正、肥塚、忍、北河原と進軍。
1566年
(永禄9年)
成田氏長、手嶋高吉の主導によりクーデターを起こす。父成田長泰は隠居する。
1580年
(天正8年)
2月12日 成田家、熊谷町における木綿売買は長野喜三が行うと定める。
1582年
(天正10年)
6月 織田信長配下の滝川一益、関東に赴任し、成田氏長らが従う。本能寺の変後、後北条氏と一益が争った神無川の合戦に際して、熊谷が北条の陣所となる。
1584年
(天正12年)
12月 幡隋意上人、熊谷寺を再建する。
1590年
(天正18年)
豊臣秀吉、後北条氏を攻める。成田長親が守る忍城は石田三成による水攻めとなり、利根川と荒川の水が引き込まれる。
豊臣家、上之龍淵寺・別府香林寺・奈良集福寺・熊谷等に禁制を発給する。
1591年
(天正19年)
11月 徳川家康が龍淵寺100石・文殊寺20石の所領を寄進する。
1602年
(慶長7年)
荒川六堰用水路の整備(成田堰用水は1615年(元和元年)。