読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

19話道祖神どうそじんー  

  大字野原の八幡神社脇には、日差しに顔をほころばせている野仏達が並んでいます。
 石仏達は野原地区のそこここに居たのですが、開発に伴い現在の場所へ移されたと聴いています。石仏は仏の姿を彫刻したり、仏の名を彫って表現されていますが、江戸時代以降に流行した神や仏を多く造ったようです。「三宝荒神」「道祖神」「青面金剛」「猿田彦命」「馬頭観音」「地蔵菩薩」などを良く見ることができますが、それぞれに、建立した人々の願いを持ち続けて風雪に耐えています。

 野原地区の中央付近に「道祖神」という地名があります。和田川に沿って、東西に通じる道路と成沢から滑川町に至る道路と交差する、交通の要に当る場所といえます。
 さらに、和田川を隔て、比企郡と接する境界の場に当ります。このような境界の場所には、必ずといってよいほど石仏を建て、その名が野原地区での地名になったようです。

道祖神」 は、ドウソジンと読みますが、明治9年(1876)の武蔵国郡村誌によると 「ドゥロクジン」 となっています。これは、「道陸神」 の文字も使ったためと考えられます。

 さて、「道祖神」は文字のとおり道の視(おや)である神で、道で起る災いから人々を守ると考えられています。各地に残る道祖神は、道路や旅人の安全を守るとされ、街道沿の道案内、目印としても建立されました。特に男女二神が彫刻された双体道祖神像が信州から北関東地方に盛んに作られ、野仏の代表として親まれています。
 また、人々に災をもたらす悪霊や疫神は、道に沿って村へ入って来ると考えられていたため、これらの悪神を塞ぎ止める役目も持っています。さらに、季節の変り目に当っては、フセギの祭りを行い、大きなワラジを捧げたり、しめ縄を巻いたりします。旧正月に催される行事が多いようです。

 野原地区の場合、南側が江戸時代の男衾、比企郡境に当るため石仏がやや多いように思えます。また「道祖神」の他に 「庚申・荒神・熊野」 のような地名もみられ、石仏が建てられているなど地名に関連があるようです。

 他にも、旧村境に位置する場所には、やはり道祖神をはじめ庚申塔などの石仏が数多く建てられていました。このような建立の目的は、先に紹介したとおり、村内へ入る災厄を塞ぎ止めるためでした。そのため、村へ入る道々に計画的に配置され、それぞれの石仏は結界 (修法によって、魔物を入れないように護った一定の地域)を結ぶ役割を持っていたようです。

 このため、簡単に移動したり、傷つけたりすることはありませんでした。しかし、現在は、本来の役割を果したのか、苔むした姿にやさしい表情を浮べ、道行く人や車を見つめています。


 野原八幡神社脇にたつ石仏群の写真
野原八幡神社脇にたつ石仏群

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