熊谷はなぜ空襲を受けたのですか?

回答します

 いくつかの理由が考えられています。

(1)軍需工場説

 今の太田市には、中島飛行機という戦闘機を製造する大きな軍需工場がありました。そのため、当時の熊谷市内には多くの関連会社、下請工場がありました。その関連施設を攻撃するために空襲を受けたとする説です。

(2)中小都市爆撃説

当時すでに東京や大阪などといった大都市は大空襲を受け、多くの方々が亡くなり、軍事的にも壊滅的なダメージを受けていました。すでに敗色が濃厚な中で、最後のダメージを与えるため、大都市近郊の中小都市を爆撃する目的で、空襲が行われたとする説です。

(3)県庁所在地説

 明治6年から明治9年まで、今の埼玉県北部と群馬県全域を含めた「熊谷県」が設置されており、熊谷市が県庁所在地でした。熊谷市の郷土史家が戦後、空襲を受けた原因をGHQに尋ねた際、熊谷県当時の地図が示されたそうです。そのため、県庁所在地として空襲を受けたとする説です。

 他にも、アメリカ軍が占領政策を行うにあたり、関東北部の拠点とするため、熊谷市に空襲を行い、その後の占領政策をスムーズにするためだったのではないか、という説もあります。