現在の位置:ホーム > 常設展示室 > 聖天堂の部屋 > 絵馬・奉納額

絵馬・奉納額

著名文人が関わった奉納額

歓喜天 山岡鉄舟書(かんぎてん やまおかてっしゅうしょ) 寸法:縦84㎝×横176㎝

明治14年(1881)11月に奉納された額で、奉納者は「山岡鉄太郎」(山岡鉄舟・宮内少輔正五位)と記されている。書揮毫者についても山岡鉄太郎である。山岡鉄舟(山岡鉄太郎)は、幕末に妻沼の地を訪れており、歓喜院には「明治14年宮内省侍従官」として額を納めている。鉄舟独特の書法が生かされ、雄揮な草書体で「歓喜天」と書かれている。
山岡鉄舟(1836-1888)は、幕末から明治時代の幕臣、政治家、思想家であり、剣・禅・書の達人としても知られている。山岡鉄舟を含む勝海舟と高橋泥舟は文武に秀でた「幕末の三舟」と称されている。額縁は「中甲丸」と呼ばれる構造であり、中央の「歓喜天」の銅板貼に施された金色彩色の光沢が目に映える。
鶏羅山(けいらさん) 寸法:縦80㎝×横60㎝

明治10年(1877)6月に奉納された絵馬額であり、東海晴湖(奥原晴湖)によって揮毫された。奉納者は「木崎駅 願主 齋藤惣四郎寿題」として記されている。昇り龍による彫刻が特徴の額縁構造となっている。規模は小型でありながら、精緻な彫刻が額縁に施されている。奥原晴湖の独特の揮毫と、肉彫り彫刻の技芸が生かされた芸術性の高い絵馬であるといえる。
題字となる「鶏羅山(けいらさん)」は、カイラス山(Kailash/Kailas)と呼ばれるチベット高原西部に位置する独立峰(標高6,656m)で、歓喜天の原郷とする伝説も残されている。歓喜天がこの地に眷族(けんぞく)を率いて住み、仏法僧の三宝(経典、僧侶、舎利)を守護するとされている。
奥原晴湖(東海晴湖)(1837-1913)は、幕末から明治期の画家。野口小蘋とともに明治の女流南画家の双璧といわれ、また安田老山と関東南画壇の人気を二分したとされる。上川上村(現・熊谷市上川上)に居を構え、画室を「繍水草堂」「繍佛草堂」「寸馬豆人楼」などと称して作品を発表した。その画風には豪快さが見られ、晩年は非常に鮮やかで色彩豊か、細密な筆致によって独特の南画世界を築いた。

各界からの歓喜院に対する奉納額・絵馬

歓喜天(かんぎてん) 寸法:縦122㎝×横192㎝

明治45年(1912)4月に奉納された額で木彫に金色が施された「歓喜天」が力強く置かれている。奉納者は「東京美術画会 会主 田部井文吉 同長女 千代子」である。書の揮毫は「志村房之」が担当している。額縁は「甲丸(蒲鉾型)」の構造であり、四辺に飾り銅板がはめ込まれている。左側縦の縁枠には東京下谷の電話番号が記されている。東京美術画会は、東京を中心に活動していた画家及び美術愛好者が所属し、画会の開催、美術品の啓発、流通などに一定の役割を果たした同盟団体であったとされている。
崇徳而廣業(そうとくこうぎょう) 寸法:縦138㎝×横245㎝

元治2(丑)年(1865)晩春吉祥旦、歓喜院聖天堂に奉納され、奉納者として46人の氏名が記載されている。額縁を形作る彫刻は「雲龍」を主題として、肉彫りなどの高度な技法が用いられ、紅色の弁柄彩色が各所に施されている。奉納者名とともに上州花輪村(現・群馬県みどり市)などの地名が書かれており、その中には「石原」などの名があることから、歓喜院聖天堂の彫刻を担った上州花輪村周辺の彫刻師集団との関わりを推察することができる。それは四方を覆う彫刻技術の高さからもうかがい知れよう。中央上部に記された「崇徳而廣業(そうとくこうぎょう)」とは、「徳を崇め業を廣む。(人に役立つことを大切にして仕事をすれば、おのずと事業も拡大する)」との意である。修練された筆の運びで、金色の輝きとともに強い印象を与える奉納額である。
𨿸羅崛(けいらくつ) 寸法:78㎝×154㎝

明治18年(1885)1月吉祥日に、「武蔵国比企郡増尾村(現・埼玉県小川町増尾)酒井万五郎」によって奉納された。書は「斎大周」による揮毫である。額の表面は濃茶色の彩色と漆が塗られ、中央に銅板造で「𨿸羅崛」と表されている。額縁の部分には銅の飾り金具が配置され、植物柄の模様が彫られている。枠四方の金色の塗り込みもきらびやかに細工されている。
「𨿸羅崛(けいらくつ)」(鶏羅山)は、カイラス山(Kailash/Kailas)と呼ばれるチベット高原西部に位置する独立峰(標高6,656m)を指し、歓喜天の伝説を今に伝えている。同じく「鶏羅山」と記された奉納額は奥原晴湖が揮毫した。
奉納聖天尊(ほうのうしょうでんそん) 寸法:縦76㎝×165㎝

大正13年(1924)2月27日に、群馬県前橋市の「前橋敬神会」によって奉納された額である。講員外150名の墨書が記されている。額縁は「甲丸(蒲鉾型)」の構造で、素木の風合いと墨字が対照的に目に映る。奉納者の「敬神会」という名から、妻沼聖天山の講組織が前橋においても結成されていたことが分かる。地域を超えた多くの寄進が、妻沼聖天山に対する信仰の特色でもあった。

奉納絵馬の信仰と美の形態

韓信の股くぐり(かんしんまたくぐり) 寸法:縦84㎝×横176㎝

元治元年(1864)3月1日、榛沢郡新戒村(現・深谷市新戒)の石川熊次郎業純を願主として奉納された額である。絵師の研香金壽による絵画と揮毫が残されている。5人登場する絵画は「韓信の股くぐり」を題材としている。登場する韓信は、漢の高祖に仕えた将軍で、張良・蕭何と共に漢の三傑と呼ばれた。韓信が若い頃、喧嘩を売られたが、大志を抱く身であったから争うことを避け、言われるまま股の下をくぐるという屈辱をあえて受けたが、その後において韓信は大成し、天下統一のために活躍したという故事が本画の由来となっている。そこには、将来に大望のある者は、目の前の小さな侮りを忍ぶべきという戒めが示されている。
絵師の研香金壽は上毛画壇の一人であり、上州島村(現・伊勢崎市境島村)の豪農・画家の金井烏洲(1796-1857)の末弟として知られる。人々の生き生きとした姿と表情が絵馬全体に満ちている。額縁は飾り銅板を各所に配置し、縁の内側に赤色の装飾を施すなど、意匠性を高めている。
川中島合戦(かわなかじまかっせん) 寸法:縦144㎝×横217㎝

安政3年(1856)4月、谷川屋連中によって奉納された額である。絵画と書揮毫者は、岩崎栄益門人の代表的な絵師である岩崎栄昌が担当した。岩崎栄昌は、江戸時代末期に妻沼を中心に活躍した画家であり、新田岩松家の御用絵師であった飯塚村岩崎栄益の門人として知られる。絵の主題は「川中島合戦」である。永禄4年(1561)9月10日早朝に信州善光寺平の川中島で、甲斐武田信玄と越後上杉謙信が交戦した際の、馬に乗った謙信と地上で軍配により防御する信玄の代表的な構図が描かれている。勢いよく討ち込む姿は猛々しく、赤彩色の強さも全体的な躍動感に結び付いている。額縁の構造は「甲丸(蒲鉾型)」であり、四隅各所に飾り銅板による装飾が見られる。
草花奉納句額(そうかほうのうくがく) 寸法:縦126㎝×横377㎝

明治35年(1902)に妻沼の「大我井俳連」が献呈した長大な奉納額・絵馬であり、画面の右側に牡丹、水仙、菊、梅、朝顔(夕顔)、蒲公英(たんぽぽ)、三椏(みつまた)などの四季の花々が彩られている。緻密な彩色画であり構図も美しい。額縁の四辺には龍の彫刻が配されている。 奉納者は俳句連の社中の人々であり、微細に記され、3段構えで合計約330の句が残されている。歓喜院聖天堂に奉納された俳諧の額としては最大である。左下の工師として田島佐市らの名前が記されている。
花鳥能宇多(かちょうのうた) 寸法:縦118㎝×横413㎝

「花鳥能宇多」(花鳥のうた)と題された絵馬で、絵画と揮毫は岩崎栄益が担い、豪壮な額縁で水しぶきを上げる「瀧水波浪」と呼ばれる造形の彫刻が施されている。右側に配置されている絵画は、十二単衣に桜の花をあしらった姿が描かれている。短歌作者筆頭に、「本庄 五福亭笑福 深谷 伊勢子正直」と記されており、合計約50の歌が記されている。江戸期の短歌の結社社中が聖天堂に奉納した絵馬であり、華麗で豪壮な仕立てにより重厚な風格を放っている。
絵師の岩崎栄益は、江戸末期の妻沼地域の郷土画家として知られ、新田岩松家の御用絵師を務めた。文化11年(1814)に再建された永井太田村(現・熊谷市永井太田)の能護寺本堂の格天井や板戸に、金井烏洲、樋口春翠らと花鳥風月を描いたことで知られている。
武蔵岩怪力(むさしいわかいりき) 寸法:縦180㎝×横275㎝

明治34年(1901)1月に奉納された絵馬で、「善ヶ島 羽鳥良平外勧進元」と奉納者の名が残されている。書は「須永梧樓」、絵は「金子霞邨(かねこかそん)」が担当した。金子は中奈良村(現・熊谷市中奈良)の出身で妻沼及び熊谷地域において現存する多くの絵馬や花鳥画の絵師として知られている。絵馬の右方に描かれた力士たちの様子が特徴的である。この絵の主題は、善ヶ島龍泉寺境内での相撲興業とされている。善ヶ島村出身(現・熊谷市善ヶ島)の武蔵岩(羽鳥良平)が、土俵上で横たわり腹上に米俵二俵、臼、舟を重ね、船上で力士6人が餅をつき杵を振り上げ、餅を降らしている様子が描かれている。武蔵岩は、堂々たる体躯で怪力であったが、家業が農家であり両親の許しが得られないため入幕せず、その力量の発揮を惜しまれたという伝説の力士であった。額縁は甲丸(蒲鉾型)の構造である。
夫婦雉子(めおときじ) 寸法:縦90㎝×横121㎝

明治27年(1894)3月吉日、妻沼の須田可津によって奉納された絵馬である。絵画を絵師の江森天淵が担当した。歓喜天の眷属(けんぞく:使者)として知られる「雌雄雉子」を色鮮やかに描いたもので、紅白の皐月と蘭が添えられている。夫婦和合、円満、繁栄などが祈願されている。雉子の姿からは生命力が溢れている。花々の描写性も高い。
江森天淵(1857-921)は、幡羅郡用土村(現・寄居町用土)出身の日本画家であり、父朝比奈錦香から画技を学び、その後、江戸の福島栁幡に学んでいる。明治14年(1881)、帰郷し幡羅郡東方(現・深谷市東方)の江森家に入婿となる。生涯を通じて、山水画を得意とし花鳥画などを描いた絵馬なども残されている。明治43年(1910)、日本美術協会から多年にわたる優作出品により功労者として表彰された。額縁は甲丸(蒲鉾型)であり、梅紋などの飾り銅板が配置され、木部の黒色との対照性が美しい。
奉納 七福神図(ほうのう しちふくじんず) 寸法:縦120㎝×横178㎝

明治27年(1894)6月15日、栃木県下都賀郡部屋村(現・栃木県栃木市藤岡町)の大島秀蔵を願主として奉納した絵馬である。七福神が描かれている。左下の枠内には奉納の理由について記されている。大島氏は目の治療に際して、自分一人の力による全治は難しいことから、歓喜院に祈願に訪れ、第一に神の助力を受けること、第二に服薬すべきとの進言を受けた。そして、その御利益を預かり治癒したことから感謝の意を込めて奉納したと記されている。画面には七福神のユーモラスな表情が描かれ、喜びに満ちた雰囲気が感じられる。額縁には飾り銅板による細工が見られる。
奉納 軍人の画(ほうのう ぐんじんのが) 寸法:縦44㎝×横59㎝

明治39年(1906)12月吉日に、高柳喜一、常見武久、中里熊次郎、浅見金五郎、浅見浄吉の名を伴い奉納された。軍服姿の5人が描かれており、記名した男沼村(現・熊谷市男沼)出身の軍人達であると推定される。前年に戦勝した日露戦争からの帰還を報告する絵馬であると思われる。参道上を歩く軍人たちの自信に満ちた表情が印象的である。右側には繁る樹木が描かれている。
奉献 龍図(ほうけん りゅうず) 寸法:縦94㎝×横158㎝

明治期に下野大前村(現・栃木県足利市大前町)の土屋七蔵が奉納した絵馬である。画は右下に示された「幽香齊梅雅」によるものであり、雄大にうごめく龍が画面全体に描かれている。墨により龍が表現され、躍動感を演出するように各所に金箔押しが見られる。額縁は「甲丸(蒲鉾型)」の構造である。
司馬温公瓶割図(しばおんこうかめわりず) 寸法:縦91㎝×横136㎝

「司馬温公瓶割図」は、歓喜院聖天堂奥殿の破風下彫刻などにも描かれた主題であり、中国の故事に由来している。司馬温公(司馬光)は、11世紀に中国北宗で活躍した学者・政治家であり、瓶割の故事は司馬光が7歳の時の逸話として知られている。ある時、司馬は友人と遊んでいたが、友人が誤って水瓶に落ちてしまった。このままでは友人が溺れ死んでしまうことから、司馬が機転を利かせて、水瓶を割り友人を助けたというものである。貴重品の水瓶であっても人の命の方が尊いという意味が込められている。全体の彩色が薄れているが、「瓶割図」の一場面を目にすることができる。額縁には飾り銅板による植物などの型が造作されている。

聖天山を表現した絵馬

聖天山真景(しょうでんざんしんけい) 寸法:縦182㎝×横327㎝

明治8年(1875)3月、上州利根郡沼田村(現・群馬県沼田市)の願主「小林善治郎」によって奉納された絵馬である。永井太田村(現・熊谷市永井太田)の荻原春山が妻沼聖天山の全景を描いている。明治初年の貴惣門、仁王門、籠堂、鐘楼、本殿、五社大明神と、右下に歓喜院山門、本坊本殿、書院などが確認できる。当時の境内の様子を知ることができる貴重な歴史資料としても価値が高い。
荻原春山(1821-897)は、本名千代吉、清泉斉春山と号し、道能、白梅軒とも称している。永井太田村に生まれ、9歳の時に能護寺住職鳳旭師に画の手ほどきを受けた。その後、上中条村(現・熊谷市上中条)の樋口春翠や狩野洞章らに師事して本格的に画道に精進したが、天保9年(1838)父の死により画筆を捨て家業に励むことになった。嘉永3年(1850)、家督を弟信有に譲ると江戸で学び、諸国遊歴の後、宅地内に隠居所を構え、画の道に専念した。明治15年(1882)東京で開かれた第1回内国絵画共進会に埼玉県の画人として、「神宮皇后像」等を出品し、明治17年(1884)の第2回内国絵画共進会にも出品して埼玉画人の名を高めた。額縁は甲丸(蒲鉾型)の構造であり、鷹の羽や上がり藤などの紋を象った飾り銅板などが配置されている。
歓喜天 聖天堂参拝(かんぎてん しょうでんどうさんぱい) 寸法:縦148㎝×横185㎝

明治20年(1887)3月、幡羅郡小嶋村の野村権三郎によって奉納された絵馬である。書画を「嶺外史昭泰」が担当した。明治期の聖天堂拝殿、鐘楼、籠堂、聖天堂前の天水桶一対、参拝人、燈籠、狛犬、参道左側に土蔵造りの太子堂、南口の参道などが描かれている。額縁も豪華で、彫刻は昇り龍を四方に配し、瀧を昇る。彫刻師は、上州花輪村(現・群馬県みどり市)、高澤个之輔信如と記されており、石原系の流れを明治時代に受け継いだ名工の技を見ることができる。
奉納 歓喜天寶前(ほうのう かんぎてんほうぜん) 寸法:縦143㎝×横204㎝

明治24年(1891)3月吉祥日、須田志奈が願主として記されている。同時期に聖天堂に奉納された絵馬「聖天堂」から長谷川薫州の画と推察される。明治時代中期の聖天堂の景観が描かれている。子どもを含めた7人の参拝者が聖天堂の前にいる様子が見える。奥には大我井の森が広がり、聖天堂の弁柄の紅が映える柱と破風が印象的に目に映る。左側には2本の巨木がそびえている。中央の右側には鐘楼が描かれており、基台をかさ上げする前の状況が見て取れる。その手前には籠堂が描かれ、上部の雲霧には金箔押しなどの彩りが加えられている。額縁には飾り銅板による唐草の文様などが施されている。
奉納 聖天堂画(ほうのう しょうでんどうが) 寸法:縦74㎝×横54㎝

昭和2年(1927)8月吉日、深谷町(現・埼玉県深谷市)の原理一が奉納した絵馬で、右下に中谷画との銘が残されている。大正時代末期から昭和初期における歓喜院聖天堂を描いたものである。聖天堂の屋根が赤く塗られ、輪郭が青い線で示されている。石灯籠の配置などの様子を見ることができる。現在は渡り廊下がある位置に多くの樹木があり、水屋(手水舎)の存在が確認できる。水彩画に近い風合いであり、洋画技法の影響が感じられる。

武芸に関連する奉納額

武芸(ぶげい) 鼎弘流柔術創始 小沼直吉 寸法:縦181㎝×横435㎝

大正2年(1913)2月9日、下増田村(現・熊谷市下増田)の小沼直吉を奉納者として、書を武井敏敬が、由緒書を金井貢が担当した。歓喜院聖天堂に奉納された最大の奉納額である。額縁は四方彫刻で、上枠は一対の龍、右枠は昇り龍、左枠は下り龍、下枠は唐獅子一対を配して、豪壮で重量感に溢れている。彫刻は熊谷玉井の小林栄吉。額面中央に小沼直吉の肖像を陽刻し、左右に雲に乗る烏天狗一対を配し、額架けには彫刻の唐獅子一対が置かれている。
本額の設計は、妻沼宿門前の田島佐市が担った。奉納者の連名では、講道館指南役柔道の山下義昭、大日本武徳会教士の剣道高野佐三郎の名が確認できるほか、深井勘右ヱ門、船田三千雄(起倒流柔術免許皆伝)などの強豪の名が続いており、1,000人を超える寄進者名が連ねられている。
主たる奉納者である小沼直吉は、鼎弘流乱内股の柔術を考案し、妻沼聖天山に願をかけて世に広く小沼流として喧伝された武術者である。由緒書を記した金井貢(号は雄洲)は、明治期の衆議院議員で、大日本武徳会の要職を歴任した能書家として知られている。出生地は妻沼原井村(現・熊谷市原井)の井上宗家で、上州尾島村(現・群馬県太田市尾島町)の金井家の養子となった。
額縁を囲む彫刻技巧の高さは、奉納額の左下に記された彫物師集団の名からも見て取れる。聖天堂など妻沼聖天山の建造物の建立で知られる林家を継いだ林正啓が職人を統括し、歓喜院平和の塔の建立で知られる林亥助も名を連ねた。彫刻師では関東一円で活躍した内山良雲や熊谷玉井村(現・熊谷市玉井)出身の彫刻師で上州花輪村(現・群馬県みどり市)を発祥とする彫刻技術を継承した小林栄吉の名があり、貴重な作品であることが分かる。
武芸 永代護摩(ぶげい えいたいごま) 寸法:縦179㎝×横209㎝

奉納時期は江戸時代後期と推定される。奉納者には「起倒流柔術 深井勘右衛門景周」と記され、揮毫者として「荒井源十郎 四分一」の名が残されている。上部には「永代護摩」と記されている。歓喜院では「武芸奉納絵馬」とも称され、武芸の上達や功績の顕彰などを目的として奉納されたものである。額縁には豪華な彫刻をあしらい、上下枠に龍二頭、左右枠は昇り龍を彫り込んでいる。中央には刀架が配置されたが、現物は失われている。
深井勘右衛門(1770-1832)は、江戸時代後期の柔術家であり、「起倒流」を埼玉県に伝えた。愛知県豊川市生まれ、14歳で江戸に上京し起倒流柔術を学んだ。その後、武者修行の旅で研鑽を積んだとされる。寛政10年(1798)に、鴻巣宿宮地(現・鴻巣市宮地)の深井家に滞留、邸内に道場を開設して多くの門人を育成したことで知られる。
武芸 馬庭念流(ぶげい まにわねんりゅう) 寸法:縦172㎝×横282㎝

嘉永7年(1854)4月1日に、「新井丈吉知澄」他4名によって奉納された「武芸奉納絵馬」である。書の揮毫者として「田部井源兵衛 源盈時」と記されている。
田部井源兵衛(1829-1896)は、上州世良田村(現・群馬県太田市世良田町)に生まれた。江戸に出て砲術を学び、帰郷して新田の岩松俊純公に召出され師範を務めた。「馬庭念流」を上州新田郷(群馬県太田市新田)から広く伝習し、馬庭念流永代免許を許されている。剣腕の強さで「鬼源兵衛」とも称された伝説の剣士であった。中央には刀架が配置されている。額縁の彫刻には亀、流水、水波などが見られる。肉彫りなどの技法が用いられており精緻な内容となっている。当地域の彫刻師集団の作と推定される。

庶民信仰の奉納額

永代常燈(えいたいじょうとう) 寸法:縦69㎝×横44㎝

宝暦12年(1762)正月吉辰日に、善ヶ島村(現・熊谷市善ヶ島)の小林善八が奉納した額である。「永代常燈」とは、神仏に帰依するために、心の汚れを焼き清める役割をもつ「火」を長年に渡り灯し続けることを意味し、常に心の不浄を除き家内安全を祈るものである。額縁は「袖付」の波状の構造となっている。
歓喜天(かんぎてん) 寸法:縦89.5㎝×横63.5㎝

文化9年(1812)初秋に、「権僧正覺順」により草書体で「歓喜天」と記された奉納額である。額縁は「袖付」の波状の構造で、側面に金色が塗られている。ケヤキの表面と金色の意匠が対照的に目に映える。
奉納額(ほうのうがく) 寸法:縦61㎝×横91㎝

萬延2年(1861)正月吉祥日に、願主・荒木勘助によって奉納された額である。金色彩色による銘が残されている。画面全体の主題や祈願の内容は不明であるが、下部と中央に削り跡があり、絵画の一部との関連が推定される。額縁は飾り銅板の細工が施され、下地には斜形の彫り物がされている。
奉納 聖天山(ほうのう しょうでんざん) 寸法:縦64.5㎝×横50.5㎝

大正3年(1914)4月吉亘(吉日)に武州菖蒲町(現・埼玉県久喜市菖蒲)の「八百倉號 鈴木倉吉」が奉納した額である。宛て名の大里郡吾妻町は、大里郡妻沼町の誤りであると思われる。「八百倉號」とは店舗の屋号または所有している競走馬などの表記であると考えられる。奉納と聖天山の部分の彫りには金色の彩色(一部金箔押し)が残されている。額縁は黒く塗られている。
奉納 聖天山(ほうのう しょうでんざん) 寸法:縦41㎝×横31.5㎝

昭和10年(1935)11月に埼玉縣北埼玉郡新郷村(現・埼玉県羽生市新郷)の「藤居傳太郎」が奉納した額である。杉材の額に墨字で揮毫している。
奉納 歓喜院聖天山(ほうのう かんぎいんしょうでんざん) 寸法:縦45.5㎝×横33㎝

昭和16年(1941)1月吉日に北埼玉郡新郷村(現・埼玉県羽生市新郷)の藤居蚊帳店が奉納した額である。杉材の額に墨字で揮毫している。昭和10年(1935)に額を奉納した「藤居傳太郎」との関連が推察される。
奉納 聖天山歓喜院(ほうのう しょうでんざんかんぎいん) 寸法:縦45.5㎝×横33.5㎝

昭和9年(1934)9月吉日に、埼玉県羽生町(現・埼玉県羽生市)の柿沼かくが奉納した額である。杉材の額に墨字で揮毫している。額縁の両端に凹凸をあしらった構造となっている。
奉納 大願成就(ほうのう たいがんじょうじゅ) 寸法:縦64㎝×横46㎝

昭和15年(1940)1月15日に、北埼玉郡中條村(現・熊谷市上中条)の荒岡イトが奉納した額である。杉材の額に墨字で揮毫し、「大願成就」と記されている。
妻沼歓喜院聖天 大願成就(めぬまかんぎいんしょうでん たいがんじょうじゅ) 寸法:縦54㎝×横40㎝

北埼玉郡中條村(現・熊谷市上中条)の石井喜三郎が奉納した額である。杉材の額に墨字で揮毫し、「大願成就」と記されている。外縁は黒漆が塗られている。
奉納額 扇形(ほうのうがく おうぎがた) 寸法:縦39㎝、上弦92.5㎝、下弦51.5㎝

扇形の奉納額で、木村ヤスの名が記されている。奉納の揮毫が独特の印象を放ち、銀色に設えている。彫られた木村の名は黒色に塗られている。
奉納 大願成就 ズイホウ號(ほうのう たいがんじょうじゅ ずいほうごう) 寸法:縦41㎝×横65.5㎝

昭和10年(1935)1月元旦に、群馬県邑楽郡六郷村大字青柳(現・群馬県館林市)の鑓田大吉が奉納した額である。画面全体に墨字の横書きで揮毫し、「大願成就 ズイホウ號」と記されている。ズイホウ號についての詳細は不明であるが、鑓田氏が所有していた競走馬の馬名とも想像できる。
歓喜天(かんぎてん) 寸法:縦80㎝×横57㎝

大正7年(1918)4月吉日、大里郡長井村上須戸(現・熊谷市上須戸)の願主・藤野森蔵によって奉納された「歓喜天」の額である。額縁は「袖付」の波状の構造で、側面に金色が塗られている。銘の金色などからも豪華な印象を与える。
歓喜天(かんぎてん) 寸法:縦53.5㎝×横33.5㎝

妻沼地域の上須戸(現・熊谷市上須戸)の金子喜三郎によって奉納された「歓喜天」の額である。墨字で揮毫されている。力強い墨字が印象的である。独特の木目が際立っている。
歓喜天(かんぎてん) 寸法:縦56.5㎝×横38㎝

明治39年(1906)3月吉日、武陽奈良村(現・熊谷市奈良地区)出身の凱旋軍士の長谷川泰助によって奉納された「歓喜天」の額である。墨字で揮毫され、草書体の「歓喜天」が端正に記されている。
歓喜天 大願成就(かんぎてん たいがんじょうじゅ) 寸法:縦57.5㎝×横42.5㎝

昭和12年(1937)12月15日に、当所(妻沼町)の青木ちよが奉納した額である。ケヤキの額に刻字され、「大願成就 歓喜天」と記されている。「歓喜天」は黒色に塗られ、外縁と平面の狭間には木製の管玉状の小装飾が見られる。
奉納 聖天堂歓喜天(ほうのう しょうでんどうかんぎてん) 寸法:縦47.5㎝×横88㎝

昭和12年(1937)10月に、埼玉縣不動岡町(現・埼玉県加須市不動岡)の願主・山﨑くにが奉納した額である。ケヤキの額に刻字され、「奉納 聖天堂 歓喜天」と記されている。彫られた各文字及び外縁の内側は黒色で塗られている。
奉願(ほうがん) 寸法:縦117㎝×横90.5㎝

上州前橋本町(現・群馬県前橋市)の小田平六が奉納した額であり、右下に「明治十五年壬午歳一月生」と記されている。子息等の誕生祝のために奉納したものと考えられる。黒色に塗られた下地に金色の文字が揮毫されている。中央に何らかの奉納品がはめ込まれていた可能性が高いが、現在は不明である。額縁も黒色に塗られ6段の構造で各段に文様の刻印などが見られる。
奉献 装飾昇龍図(ほうけん そうしょくしょうりゅうず) 寸法:縦69㎝×横48.5㎝

武陽児玉郡本荘仲町(現・埼玉県本庄市)の江森忠四朗が奉納した絵馬である。中央には人形装飾の龍が、下部には波型の装飾が置かれている。左側には同町の松崎福松という人形師の名が記されていることから、同人による製作品と推察される。木製の外枠にアクリル板ではめ込まれている。昇り龍の力みなぎる表現が秀逸である。
奉納繭額(ほうのうまゆがく) 寸法:縦47.5㎝×横82.5㎝

大正6年(1917)7月上旬に、大里郡妻沼町弥藤吾村(現・熊谷市弥藤吾)の堀越数太郎の名で奉納された繭玉の額である。個人名が45名(5段・9連)記され、それぞれに繭が内包されている。左側には堀越氏が技術や作法の伝授を行ったことによる恩恵について記されており、この顕彰を込めて、同地域の人々が連名で奉納したものであると思われる。
屏風 和歌(びょうぶ わか) 寸法:縦45.5㎝×横30.3㎝〈左右〉、横81.5㎝〈中央〉

小型の屏風の形態であり、中央に「はる能その 久れない二ほふ もゝ能花 したてるみちに いで立つおとめ」と記されている。『万葉集』巻19-4139に所収されている大伴家持が詠んだ「春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ少女(おとめ)」(春の庭が紅色に美しく照り輝いている。桃の花が木の下まで美しく照り映えた道に出てたたずむ少女よ)という和歌である。奉納年代等は不明である。

演奏会「祈りの響き」
【妻沼聖天山の絵馬展 妻沼展示館大展示室 撮影日2017.07.29】

出展

調査研究報告6
妻沼聖天山の絵馬・奉納額
― 妻沼聖天山における郷土文化と人々の祈りを伝える歴史資料の概要 ―

著者:山下祐樹(熊谷市立江南文化財センター)

2018年7月30日発行
発行:熊谷市文化遺産保存事業実行委員会・文化遺産研究会
事務局:熊谷商工会議所・熊谷市立江南文化財センター
(熊谷市宮町2-39)(埼玉県熊谷市千代329)