『めぬま郷土かるた』で振り返る 我が郷土 妻沼





すべては村民のために
義民名主が命をかけて直訴
五人組制度や慶安の御触書などの法度によって統制され、年貢の負担に農民が苦しんでいた元禄の頃、飯塚村(現在の大字飯塚)に常に村民のために身を挺(てい)す名主、原口与五左ェ門がいました。
元禄9年(1696)、度重なる水害による不作のため、与五左ェ門は年貢を軽くしてほしいと、お上に願い出ました。しかし、地頭所でも強く願い出たことにより地頭の怒りをかい、父子とも処刑され一家は断絶しました。
死後83年後に、村人たちは父子の供養を許されたことにより「郷祖先社宮」として、来迎寺境内に祀(まつ)りました。以後、現在も8月29日に祭典が行われています。