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松井清兵衛清昌(まついせいべいきよまさ)生没年不詳


石工。生没年不詳。『享保年中熊谷宿屋敷図本町および新宿の部』および『宝暦十年本町屋敷持主図』により、熊谷市宮町付近に間口三間六寸の居を構えていたことが確認される。大里郡を中心に名前の刻まれた地蔵が県内で33体程確認されている。
市内では、須賀広の釈迦寺(元文3年:1738)、樋春の旧観音寺(享保7年:1722)、同真光寺(享保6年:1721)、原島の吉祥寺(正徳5年:1715)、西別府の安楽寺(享保2年:1717)、同観音堂(享保3年:1718)、新堀の大正寺(享保2年:1717)、久保島の大光寺(享保6年:1721)、弥藤吾地内(享保7年:1722)、小島の全昌寺(享保8年:1723)、柿沼の竜昌寺(元文3年:1738)、戸出の金錫寺(延享2年:1745)、石原の東漸寺(延享4年:1747)、村岡の高雲寺(延享5年:1748)等に名前が刻まれている。この他、赤城久伊豆神社本殿棟札に石工として記載されている。

   
 熊谷市指定有形文化財 歴史資料「旧観音寺地蔵」  弥藤吾地内「地蔵尊」