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掛川茂一郎(かけがわもいちろう) 教育者 1868-1923

     
 掛川茂一郎頌徳碑:弥藤吾(観清寺)  備前渠改閘碑記の碑(深谷市西矢島)


掛川茂一郎は、明治元年2月26日に太田村永井太田に生まれ、下奈良圓通寺の東條芹水に就いて漢籍を学びました。その後埼玉県師範学校に進み、明治21年に大里高等小学校に勤務し、明治27年に幡羅高等小学校に移り、新井、河合両校長を助け、幡羅地域の人材育成に努めました。その後幡羅高等小学校の第3代校長となりますが、明治44年の同校廃校に伴い、長井尋常高等小学校長に転じ、民心の開発と地方の改善に力を注ぎました。
また、備前渠の渠底浚渫工事に協力し、明治34年(1901)工事が完成したことを記念して建てられた「備前渠改閘碑記の碑」(深谷市矢島地内:明治36年造立)の碑裏に名前が刻まれています。この碑の撰文は渋沢栄一、篆額は徳川慶喜、石工は吉川黄雲。
大正2年には青年会長となりますが、大正13年4月14日57歳で没しています。
書を能くし、晩年は和歌を楽しみました。 昭和2年5月に、子弟810名による頌徳碑が、弥藤吾地内の観静寺内に建てられています。撰文は石坂養平、書は埼玉県知事斎藤守圀です。碑の裏面には、子弟810名の名前が刻まれています。

参考文献

  • 『妻沼町誌』 1977年 妻沼町役場