旧江南町の歴史 扉へもどる
江戸時代 1603〜1867年
1604年
(慶長9年)
伊奈備前守忠次、備前堀を開削する。
徳川家康が聖天堂を再興したとされ、聖天社領50石を寄進する。
11月 徳川家康が、久伊豆社30石・常光院30石・熊谷寺30石・一乗院30石・集福寺20石・浄泉寺20石の所領を寄進する。
1605年
(慶長10年)
幡随意上人、葛和田村大龍寺を開山する。
慶長年間以降 多くの村々で伊奈備前守忠次による検地が行われる。
1609年
(慶長14年)
5月 篠場長命寺、聖護院門跡より上比企郡の年行事、男衾郡・榛沢郡田中以下の檀那職、富士・三島の先達職を安堵される。
5月 押切若宮坊、聖護院門跡より大里郡内6ヵ所の知行を安堵される。
1616年
(元和2年)
幕府、利根川沿いの葛和田などを十六定船場に定める。
1621年
(元和7年)
大河内金兵衛、熊谷町を検地する。
1623年
(元和9年)
荒川が大洪水となり、熊谷堤が決壊する。
1631年
(寛永8年)
9月 利根川・荒川大洪水。
1638年
(寛永15年)
妻沼陣屋、代官大河内久綱の免職にともない、廃止される。
1639年
(寛永16年)
御正村々、秣入会地の開発をめぐり争論が起こる。
忍城主阿部豊後守忠秋、久下に大築堤を完成。元荒川できる。
1644年
(寛永21年)
年貢割付状に「熊谷町」の記載。
妻沼村聖天領の検地が行われる。
寛永年間 熊谷町石上寺が竹井新左衛門信武を開基として開山される。
1645年
(正保2年)
御正新田6か村と野原村・須賀広(管広)村間の秣場争論が裁定される。
板井村と三本・押切・成沢村間の野論が裁定される。
1649年
(慶安2年)
2月 代官三枝吉勝ら、太田村能護寺の朱印状交付を寺社奉行に願い出る。
1670年
(寛文10年)
11月 妻沼村で大火があり、仁王門・中門を残し、聖天堂類焼する。
1671年
(寛文11年)
熊谷町高城神社、新たに宮社を造って今の地に移し、神主・別当らが年中行事・社内覚を定める。
1672年
(寛文12年)
荒川通万吉堰の元堰を上流に移して吉見堰とする。
1674年
(延宝2年)
1月 妻沼村歓喜院、寺社奉行に江戸出開帳を願い出る。
1678年
(延宝6年)
6月6日 御正村他4カ村と千代村・三ツ木村の野論裁許。
1687年
(貞享4年)
3月 評定所、忍領38ヵ村と西野村など5ヵ村の利根川通川除普請争論を裁許。
1698年
(元禄11年)
久下村に火防祈願のため地蔵を建立する(後に「権八地蔵」と呼ばれる)。
1699年
(元禄12年)
8月 関東大風雨により、龍淵寺庫裏など家屋20軒倒壊する。
1703年
(元禄16年)
11月 大地震が起こり、上之村では夜中8つ時より間断なく振動する。
1717年
(享保2年)
11月 荒川通成田堰組合と他5堰組合が渇水のために用水争論となったが、内済となる。
1723年
(享保8年)
9月 利根川が埼玉郡上中条堤で決壊し、大洪水になる。
1729年
(享保14年)
中条堤に四方寺堤が築き足される。
1731年
(享保16年)
妻沼聖天堂紵絲斗帳、将軍吉宗の上覧に供する。
1742年
(寛保2年)
8月1日 寛保大洪水。
1744年
(延享元年)
3月 妻沼村聖天堂の奥殿が竣工し、開帳。
1746年
(延享3年)
10月 押切村諏訪神社の本殿が創建される。
1752年
(宝暦2年)
3月3日 「熊谷町古絵図」が描かれる。
1753年
(宝暦3年)
4月 熊谷町熊谷寺の阿弥陀如来・蓮生坊肖像、江戸本所回向院で出開帳を行う。
1760年
(宝暦10年)
聖天堂の拝殿が竣工する。
1764年
(明和元年)
閏12月 中山道伝馬騒動起こる。
1766年
(明和3年)
1月 石原村に「ちゝぶ道」の石標建つ。
1779年
(安永8年)
聖天堂の屋根を、瓦棒銅板葺に改める。
1783年
(天明3年)
7月6日 浅間山噴火、6〜8日は暗闇のようになり、土砂降りは上之村で坪1石余り(竜淵寺史料)
1787年
(天明7年)
1月 下奈良村名主の吉田宗敏、熊谷宿助成金として幕府へ150両を上納する。
1789年
(寛政元年)
11月 下奈良村名主の吉田宗敏、利根川堤修築費助成金として幕府へ500両を上納する。
1790年
(寛政2年)
3月 幕府、下奈良村名主の吉田宗敏ら関東の酒造家に上酒の試造を命じる。
1791年
(寛政3年)
8月6日 荒川が洪水となり、石原村堤・熊谷宿堤・久下村堤など決壊する。
1792年
(寛政4年)
8月 下奈良村名主の吉田宗敏、荒川通奈良堰用水普請助成金として幕府へ300両を上納し、苗字帯刀を許される。
1793年
(寛政5年)
3月 熊谷宿で絹布仲間議定書がつくられる。
1800年
(寛政12年)
11月 熊谷宿、幕府に「熊谷宿往還通明細書上」を提出。熊谷宿937軒・3276人。
1809年
(文化6年)
上之村名主小沼保直、「成田記」を起稿する。
1813年
(文化10年)
7月 下奈良村名主の吉田宗敏、熊谷宿助成金として幕府へ1500両を上納する。
1825年
(文政8年)
下奈良村名主の吉田宗敏、利根川通14ヵ村水害に1000両を出金する。
1826年
(文政9年)
10月 下奈良村名主の吉田宗敏、荒川通玉井・大麻生堰普請助成金として600両を上納する。
1828年
(文政11年)
12月11日 文殊寺が大火となり、本堂・庫裏などを焼失する。
備前堀の元圦口が再興され、下奈良村名主の吉田宗敏が備前堀組合へ助成金を献上する。
1831年
(天保2年)
渡辺崋山、三ヶ尻村周辺の地を訪れ、製作した「双雁図」・格天天井「松図」を竜泉寺に残し、翌年地誌『訪チョウ録』を著す。
1833年
(天保4年)
下奈良村名主の吉田宗敏、救荒のため以後5年間に5000両を献金する。
1834年
(天保5年)
下奈良村名主の吉田宗敏、江戸・武蔵・上野の救荒貯穀助成のため天保7年と合わせて1万両を献金する。
1835年
(天保6年)
中奈良村野中暁昌・定直父子、「中山道熊谷駅定助郷古今趣旨書留」を編纂する(下巻・第四は以後)。
1837年
(天保8年)
6月 荒川通奈良堰・玉井堰・大麻生堰・成田堰間で用水配分騒動。
1839年
(天保10年)
2月 向谷村他9か村、不正な普請役人により堤普請がまとまらないと川越藩に強訴する(いわゆる「蓑負騒動」)。
1841年
(天保12年)
3月 熊谷寺阿弥陀如来、江戸回向院で出開帳を行う。
9月 高城明神に京都・江戸及び近郷の染物業者が鋳銅製の常夜灯を奉納する。
1850年
(嘉永3年)
7月20日 麦作の農業改良に尽くした権田愛三、東別府村に生まれる。
1851年
(嘉永4年)
3月3日 近代日本最初の女性医師荻野吟子、俵瀬村に生まれる。

11月 妻沼村聖天堂の貴惣門が建立される。
1852年
(嘉永5年)
3月24日 押切村諏訪神社の社殿が再建される。
1854年
(安政元年)
1月29日 熊谷宿熊谷寺焼失する。
11月 関東に大地震。
1858年
(安政5年)
8月 大里郡吉見領村々と熊谷宿との間で百間出し一件が起こる。
1859年
(安政6年)
8月13日 荒川が大洪水となり、熊谷宿などで被害。
1860年
(万延元年)
8月 妻沼村歓喜院・名主ら、寺門静軒を招き両宜塾を開く。
1861年
(文久元年)
11月12日 皇女和宮降嫁のため中山道を下り、本陣竹井邸に宿泊。
1862年
(文久3年)
甲山村根岸友山・新堀村中村定右衛門・飯塚村須永宗司ら浪士組(のちに新徴組)に参加する。
1866年
(慶応2年)
玉井村鯨井勘衛、荒川川原に桑園を開く。
甲山村根岸家に滞在中の安藤野雁が「冑山防戦記」を著す。
1867年
(慶応4年)
3月9日 東山道先鋒総督岩倉具定ら熊谷宿に到着し、本陣竹井邸に宿泊する。
1868年
(慶応4年)
奥原晴湖、上川上村へ移る。(以後、度々東京等へ移るが、晩年は上川上の画室 繍水草堂で過ごす)
慶応年間〜明治初期 竹井澹如、別邸「池亭(ちてい)」(のちの星溪園)をつくる。