読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

46話内神うちがみー  

  和田川右岸の地は比企丘陵に連なる多数の尾根と谷津とが発達しています。この谷津では多くの場合雨水や湧出する清水を貯えた沼が造られています。「内神」の場所もそうした条件を備え、谷の開口部付近には上下二つのの沼が造られ、安定した水源を得ようとした祖先の思いが忍ばれます。
 村落の中では水源は重要な場所の筆頭で、これを土木技術の面から維持しょうとする工夫や、神霊の力を借りて守ろうとする祭祀が常に行われています。
 本文ではこの様な視点から小江川地内の内神地名を考えてみたいと思います。
 山神とは内なる神のこと、より狭い地区・単位で奉る、一地区一族一家などの神をいいます。また、内と氏とは同義であることも説明されており、一族の祖先神をも含んでいるとされます。
 このことは、一族一家毎に奉る神が異なる場合もあり、説明の難しい独自の神である場合もしばしばみられます。ですから良く説明されるのは、生業に結びつけて山に生活の糧を求める者は山神を、田畑の収穫に頼る者は稲荷神を奉るというように特定の神名を掲げる家々が増えるというものです。
 さらに武士の台頭により源氏に属した武士達がその氏神である八幡神を自己の氏神と人合祀するなどの展開がみられます。
 しかし、先の様相は時流に乗ったもので、前面に出さないけれどもそれぞれ異なる家々の神が基盤に祀られていることに変わりはありません。おそらく、偉業を成してきた祖先の業績、その歴史を顕彰し伝承すべき遺産として、さらに子孫の忘れてはならない誇りとして一地区一族一家の神にそれぞれ祀られたのだと思います。
 氏神・「内神」は次第に一家やその屋敷を守る役割も付加されていきます。占有する敷地の地主神に加えられたのでしょう。多くの場合、敷地内の西北(戌亥)隅に置かれます。
 平安時代後期に編さんされた今昔物語では、藤原氏の東三条殿の場合西北隅に置かれた神を「内神」と記しています。これは後に屋敷神または氏神(内神)に連続する信仰と考えられているものですが、現在も旧家には良くみることができ、熊谷市の旧家でも同様のようです。
 「内神」地名の場所は水源となる沼があります。築造年代は不明ですが付近の発掘で古墳時代初頭に作られた祭祀用土器が集中して出土したことから、水源地を祭祀場とする信仰は当時からあったのかもしれません。旧小江川村の中心を「郷」付近とすると、ほぼ西北方向に「内神」はあります。
 これらの土地の特性には祭祀を行うにふさわしい「水源」と「方向」のあることを認めて良いように思えます。ただ、祭祀が継続していたとの物証や、人との関り歴史背景の究明に乏しい。
 今後、本文がこの間題を再考する糸口になれば幸いに思います。


内神沼の近景写真
内神沼近景


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