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             ふるさと再発見地名は語る

   高堰たかぜきー  

高堰はタカゼキと読み、現在の上押切地区に残る地名です。周辺は、八幡神社が北に位置し、東側に新押切橋へ至る県道が貫通しています。地名の由来はこの地区を東西に流れる吉見用水路と深く結びついているようです。

高堰地点での吉見用水路は当時の姿を良く残し、玉石積の整った水路璧をみることができます。この水路は深谷・熊谷境の入樋北より伸びる本流が下押切・樋春方面へ通づる北流と、三本・成沢方面へ通づる南流に分岐する場所に当り、大きな堰が設置されていました。「堰」は用水取入れのため、水をせき止めたり、水位、流量を調整するための構造物で水路中や取水口に土のうや差込板を使い、水はこの上を流れました。

高堰は用水本流の制御をする施設ですから、水田等の取人口に造られた堰より大形で整備されていたと考えられます。おそらく地名の由来となるような目立つ施設だったのではないでしょうか。ちなみに吉見用水路流域では、わずかに堰上(せきあげ)町(熊谷市)、堰場(せきば)(東松山市)に堰に関する地名を拾うことができるだけです。

高堰には明治初年に廃寺となった「西光寺」という寺がありました。現在も墓地が残り、傍には庚申塔をはじめとする石造物がいくつも建られています。この中の一つに「不動明王」の銘を持つ石造物があり、江戸時代末期頃の高堰に関係した出来事が長い銘文に刻まれています。それは、おおよそ次のような文章です。『西光寺僧の実道は高堰河と呼ばれた用水路に石橋を架けようと思い、近辺の村人に協力を訴え事業を始めた。ところが、事業の途中で実道は死んでしまった。協力者や村人達は、たいへん嘆き悲しんだが、彼の願いを実現しようと橋工事に力をそそぎ、ついに石橋を完成することができた。石橋ができた利便は大きく、この事業を始めた実道の功績も偉大で千載不朽のものである。協力した幾多の男女の願いは、彼の功績を(たた)える碑を建て、併せて不動明王の力を借り石橋を永く保ち、通行安全であるようにしたい。』「維時 天明六(一七八六)丙午載 三日穀旦東超山西光禅寺現住東印叟敬詩願主実道上座 助力信男女等 助力笠原氏」とあります。

石橋は「押切の渡」より八幡神社を折れ、権現坂方面へ続く道が水路を渡る場所になり、交通の要衝でした。碑文によれば実道の発願から橋の完成までに九年を要しています。資金の調達又は工事の途中で彼は亡くなるが、彼の人柄か、彼を慕う村人達の様子には、民衆教化と社会奉仕に尽くした当時の僧侶の姿をみることができます。

以来、二百年余りを経て、新県道は用水路上を通るなど当時と一変しましたが、先祖の抱いた通行安全の願いはなお生きています。



高堰付近の吉見用水

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