読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

   新田(一)しんでん(一)ー  

「新田」地名は熊谷市に比較的多く残されています。主に江戸時代以来の呼称のようですが、由来は、耕地を得るための開墾を盛んに行った事実を裏付けるもので、祖先の労苦の跡を物語っています。

現行の新田地名は、江南地域では、上新田御正新田須賀広−新田、新田裏、新田前、前新田、板井−新田、野原−下新田があり、田のつく地名を加えると三十箇所以上を数えます。他に、江戸時代に開墾された新田が再び山林に戻り、新田地名の失われた場所もあったようです。

地名の意味や由来については荒川右岸地域の場合、土地の乾燥度が高く、水が得にくいため、良い耕地は少かったようです。江戸初期に甲斐武川衆がこの地域に多く入植させられたのも、荒地や未開地を開墾する使命を持っていたからかもしれません。また、第二次大戦後の農業振興の一環として開拓団が入植したことも新しい記憶です。

新田開発は江戸幕府の政策として推進され、県内でも低地・台地・丘陵地と実に様々な場所が開墾されています。江戸前期は、灌漑用水整備、河川改修が実施されほぼ完成されています。熊谷市に係わりの深い荒川六堰もこの時期に設置されています。利根川・荒川・入間川水系の低地帯の耕作地が飛躍的に増大していることが知られ、元祿年間までの増加は「武蔵田園簿」にみえ、入間・埼玉・葛飾三郡で十一万石余りと生産高が増えています。丘陵、台地域でも増加傾向だが前者には及ばないようです。

江戸中〜後期にも幕政改革の折に開発が推進され、開発者も名主、有力百姓と幅広い層の人達が加ったようです。その結果、不整形な耕地、谷田、棚田までが丘陵・山地域まで造られていきました。さらに農業技術の改良・干照りに強い水稲、陸稲の品種改良も影響しています。

米は日本の歴史上、近代まで経済の中心でしたから米造りの始った弥生時代には村の中に稲籾を保存した高床倉庫が早くも現われています。奈良時代には税として徴収した米を蓄える倉を、国、郡、郷に備え正倉と呼び国家の運営に充てていました。大名の勢力をいう場合も米の収穫高を用い、十万、百万石と呼びました。収穫高が勢力の目安となる例は外国には無く日本特有のものです。

この季節、早苗の伸びる耕地を当り前のように目にしますが、大変な労力を必要とする新田開発の原動力となった想いは、その時代にあって知恵を絞り、生きるための最大限の努力を尽し、なお、豊かさの意味を忘れなかった人々を考えさせます。



須賀広地区の田園近景

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