読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

35話宿しゅくー  

  「宿」とは、文字通り「宿る」ところで、旅行・交通に関わる人馬の「宿」として街道に接して発達しました。他に、人家が軒を連らねて並ぶ賑かな所をいう場合もあるので、本稿も多くの推測中の一案に過ぎません。
 「宿」地名の残る御正新田地内には、主要地方道熊谷寄居線が東西に、やや離れていますが国道407号線が南北に通過しています。また 、「宿前」・「宿浦」などの地名も周囲にみえ、元々の「宿」より地名が発生し広がったと考えることができます。
 このことは、「宿」の成立が古いのではないかとする由縁です。御正新田・春野原・鍛冶屋敷・大坂などでは、約千二百年前の江南地域には官道(国道)が通っていました。東山道武蔵路とされる国道407号線は武蔵国と上野・下野国を結ぶ幹線道で、荒川南岸より分岐し江南地域を抜け寄居町方面へ向う路線が、地内に所在する寺内廃寺と板井に所在する出雲伊波比神社の間を通っていました。
 建久二年(1191)熊谷直実の領地を記した「熊谷蓮生坊譲状」中にみえる「村岳(岡)境大道」は、古代の東山道であり、鎌倉街道としても使われ、現国道に至ると考えられています。
 文書中の「村岳(岡)」は、現在も残る地名であって、ここには当時の交易の中心であった「市」が開らかれていました。市は、渡場・辻などの交通の要衝に生れ、村岡の市も繁盛していたことが窺われます。
 蓮生が往生の期日を市に掲げたところ、数千の人々が集まったとされる伝承も市に往来する人々が多数いたことを示しています。
 この様な 「市」 には、隣接して人馬の仮泊する「宿」が自然と整備されていました。市・「宿」の遺跡発掘例は少なく、広島県の葦戸千軒町遺跡などが中世の市・「宿」の様子を知らせてくれます。物資を保管する倉庫が並び、職人が集まり、荷物を運搬するための牛・馬を飼育した場所まで整備した場合もありました。この様な市と「宿」の姿は、村岡の市と御正新田の「宿」との周辺にも、かつては見ることができたかもしれません。
 畠山重忠の滅亡以後、御正新田・万吉・村岡周辺は、新田氏の管理するところとなり、一族の中から岩松氏が地頭(領地の管理者)となっています。新田氏との関係は、重忠未亡人を岩松氏か妻に迎えたこともありますが、古代以来の交通路が両者を結んでいたことも一因と考えられます。新田氏の勢力範囲(群馬県大田市〜境町周辺)と領地とされる万吉・御正新田地域は直線で結ばれ、経済の拠点であった市もおさえていたことになります。
 近世以降は、前代の「宿」に加え新たな「宿」が街道整備に伴い設置されました。宿場がそれですが、埼玉県内の主要街道からは旧江南町ははずれ、村岡の市も姿を消し、新たに熊谷宿が整備されていきます。中世の市・「宿」ともに、荒川の洪水に埋没したものが、地名に由緒を残すばかりとなっています。


 宿地内を走る県道熊谷寄居線の写真
宿地内を走る県道熊谷寄居線

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