読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

7話押切おしきりー  

 押切」は、旧江南町のどこよりも荒川とのかかわりの深い地域でしょう。荒川は名のとおり荒らぷる川です。太古より秩父山地の土砂を運び江南台地の基磐礫層を堆積させ、また削り、氷河期以降現在まで水田として利用される沖積地をつくりあげました。荒川は振り子のように流れを変えますが、この基点に大字三本、「押切」も位置しています。

 治水整備が未熟であったころ、洪水の勢いは、一気に堤防をつきくずし、田畑を駆けぬけた。そんな災害が何度も繰り返されたようです。わらなどを細く切る道具も「押切」といい、力まかせに物を断ち切るという意味から、地名と関係があるかもしれません。

 「押切」の地名が現われる最古の文献は、室町時代末の文書で御正山家文書(みしょうやまけもんじょ)と思われます。御正山家は、その昔は東陽寺と呼ばれていました。(東陽寺は京都聖護院の配下にあった修験道寺院の一つでしたが大里郡(荒川右岸十二力村)の同派寺院の支配権を持つ上級寺院でした。)

 「押切」には、鎌倉時代の板碑がいくつもあります。宝幢寺の正嘉二年(1258年)板碑は2.1mで町最大です。前回「樋春」で紹介したように「押切」も鎌倉時代までさかのはる地名のように思えます。新田氏の本拠地は、太田市から尾島町にかけての利根川に面した肥よくな土地ですが、ここに「押切」の地名があります。

 畠山重忠滅亡後の江南地域は、足利氏・新田氏より出た岩松氏の領地となり万吉に住んでいます。重忠以来の新田開発を受け経ぎ発展きせたと推測することもできるでしょう。現在でも治水は政治・行政の原点であると思います。「押切」の名は荒れ川という荒川の治水に腐心した先人たちの決して忘れてはならない水に対しての教訓を秘めていると思います。


昭和36年頃の荒川にかかる押切橋の写真
昭和36年頃の荒川にかかる押切橋

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