読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

5話成沢なりさわー  

 地名の由来や故地は、はっきりしていない場合がほとんどです。それは、世代を経るにつれて記憶が薄れ、時代の流れにさらされていくためでしょう。ですから大きな事件、目立つ地形などがあった場合、その地名が記録されることがあります。

 「なるさわ」を「鳴る沢」とすると水量の豊かな沢や谷を連想できます。地図を見ると「成沢」には江南台地を流れ出す谷がいくつかあり、静簡院の北側や行人塚の北側は代表的な谷です。特に後者は板井付近から柴沼を経て運動公園へ続くもっとも大きな谷となっていて、途中にドカドカ橋(運動公園前)という名の橋もあって、水音が大きく響いていたことがうかがえます。

 成沢の名のおこりは、自然の地形と水の流れによると考えて良いのではないのでしょうか。

 江戸時代初期、慶長三年(1598年)伊奈忠次より旧武田家の武士団である甲斐武川衆に知行地として与えた土地に「なるさわ」の地名が見え、これが「成沢の名を初めて見る記録です。なお、この時に多くの武田家の家臣が旧江南町内に移住したようです。

 行田市の忍城は、天正十年(1582年)豊臣秀吉の関東攻略に際し、北条氏に味方した成田氏長のいた城です。成田氏の家臣名簿というべき記録に「成田家分限帳」があり、千三百人からの一族・普代侍の名が見え、その中の一人に″成沢藤三郎″という人物がいます。

 当時の侍は居住地の名を名乗ることが一般的だったうえ、普代侍は領地を与えられていたので、年貢の他に農民への労役も行うことができました。彼は、成沢のどこかに居住していた可能性が高いと言えますが、その後の消息が全く不明のため、詳細についてはわかりません。あるいは成田氏の衰亡と運命を共にしたのかもしれません。

 成沢」に残る戦国時代の館は静簡院の建つ場所に、堀と土塁の痕跡を伝えています。


成沢地内を流れる和田吉野川の写真
成沢地内を流れる和田吉野川

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