読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

   香要在家かようざいけー  

香要在家は小江川地区を流れる和田川に沿った所にあります。川に向う緩斜面に須賀広新田のように前面に畑地を持つ屋敷が並んでいます。香要はカヨウと読まれ市内に同様の地名は見当りません。在家は千代・別府にあります。地形上の共通点は判りしないようです。

地名辞典等によると「カヨウ」は、「通う、通い」の道に通じる、道に面するという意味と、「(かや)(かや)」のことで、萱・茅の生えるところという意味があります。東隣に「新道」の字地名が残っていることから交通の多い場所に関連した「通う」の意味が強いようです。しかし、和田川に生えた萱・茅の多い場所であったことも否定できません。同じ和田川の下流の野原・土塩には茅原・茅場の地名が川沿を呼ぶことと関連しそうです。

在家は、本来の意昧は仏教用語で寺に住まず自分の家にいて仏教に励む人のことで、もともと居るべき寺から離れているという意味を持つようです。この「互いに関係が深いが離れている」という意味が、本家と分家というように、一方が他に属しているという意味にも使われています。小江川は中世の「小江郷」と呼ばれ、鎌倉〜室町時代の古記録に表われています。中世の武士が住む場所を(たて)・堀ノ内と呼ぶと、従者や家来の住まいを在家という場合があります。小江川地内にあったという城跡や館跡は定かでありませんが、館ノ内(たてのうち)に通じる「竹の内」の地名が、物見や狼火台(のろしだい)に最適な高根山の近くにあることが関連するかもしれません。また本来の意味のとおり在家の僧侶が住んでいたことがあったのかもしれません。

小江川には現在も二つの寺院、保泉寺と満讃寺があります。保泉寺は高根山の近くから現在の場所へ移ったといい、満讃寺には館のような構堀(かまえぼり)の跡が残っているとされ、両寺とも中世に復興、創建の由来を伝えています。明治初年に廃寺となった聖観寺も加えると三力寺を数え、寺院が多かったことが(うかが)えます。小江川には、高根山の周辺、おそらく石切場となった崖面に観音像を刻んだ場所があり、それを「観音岩」と呼んだということが伝えられています。現在その場所はわかりませんが、高区配水池の下位の山腹に開いた横穴に小さな仏像を置いたらしい(くぼみ)が残っているので、中谷の周辺に「観音岩」があったのかもしれません。

香要と在家は、カヨウとザイケが一つになったもので当初のカヨウに、後になってザイケが加わったと考えられます。仏を敬う人や有力者が多かったのでしょう。



香要在家付近近景

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