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             ふるさと再発見地名は語る

   鍛冶屋敷かじやしきー  

鍛治屋敷は現在の樋春にあった地名です。今は小字名ではないのですが、新編武蔵国風土記稿や、名寄帳等にみえています。もっとも通称では使用されることもあるようです。鍛治屋敷は文字どおり、金属加工を行った人、いわゆる鍛冶屋のいたところで、樋春の場合この地名は中世までさかのぼる可能性があります。

中世の樋春は「春原荘(しゅんのはらそう)」という荘園に属していました。荘園は有力貴族、寺社の領有地で、地頭と呼ぶ地元の有力武士が管理者になっていました。春原荘の範囲は、現在の江南地区東部から万吉に及ぶ荒川右岸地域と推定され、地頭と推定される岩松氏は荘内の万吉郷に館を構えていたようです。

春原荘内には万吉郷、平塚郷、御正郷、村岡郷などがあり、古代からの主要道である東山道・鎌倉街道・村岡の市・渡場を含むことから、人・物の集散する場所であったようです。このことを示す逸話として、熊谷直実が往生の際に村岡の市に往生の日時を記した札を建て人々に知らせています。「法然上人絵巻」にみえるこの逸話には、直実往生の様子を見ようと集まった多数の人を市場のにぎわいのようだと表現しています。

中世は武士の時代であると共に物の生産・流通と経済活動が盛んになりました。中でも、武具や農具・鍋などの日常雑器として鉄器の需要を高め、領主はこれらを生産する手工業者を保護し、自分の傘下に抱える必要もあったようです。これにこたえ、鍛冶屋や石工・仏師などの職人が集まってきたと思われます。

当時は川砂に混じる砂鉄を鍛治に用いることが多く、樋春の地は荒川の流路に面した自然堤防上にあることから砂鉄を採る条件に恵まれています。また村岡の市に間近であるため、製品の販売も安易であったと考えられます。荒川の流域では古代から製鉄関係の遺跡が多く見つかっており、深谷市花園地区、市内江南地区では発掘調査も行われています。このような場所では鉄くずや炭などが散らばっている様子をみることができます。

鎌倉、室町時代と春原荘の万吉郷は岩松氏の嫡流に相伝されており、拠点であったようです。この理由として、村岡の市・鍛治屋敷での鉄器の生産などが、春原荘を支える有力な経済的基盤の一つであったためだと思われます。

中世以降、鍛治屋敷の地名のみ伝わることになりますが、その原因には荒川の流路の変更があり、砂鉄を採取しにくくなってしまったことも考えられます。春原荘の故地にある真光寺には鎌倉時代の板碑が数基、かつての有力者の存在を偲ばせるように遺されています。


現在の鍛冶屋敷付近
現在の鍛冶屋敷付近

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