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   東別府ひがしべっぷー  

1.武蔵国は、当時21郡を有する日本一の大国で、国内統治上、国府の外に支庁である別府を置く必要があり、熊谷と越谷に置かれたとされ、ここから別府の地名がおこった。〔埼玉県史・熊谷市史〕

2.別府は、“別符”の転化で、別符とは大宝律令の田令にある別勅旨のことで、別勅によって定められた土地。この地がそれであったため、別符→別府の地名がおこった。〔吉田東伍博士・埼玉県地名誌〕

3.別府の“府”は当て字で、本来は“符”で太政官符を意味し、荘園新立の時代において別官符(追加開墾状)を得て開墾した新開地をさす。〔柳田国男氏・埼玉県地名誌〕

4.別府をもって指定された()※で、社寺の封米を担当したもの。〔埼玉県地名誌〕

5.単に新しく開発されたところの地名、なお村の北方は低地であり水田が広がっている。〔熊谷市史〕

6.アイヌ語(Betputu)ベップト 川口の村と解す。
かなり昔、河川がここで古東京湾に流入していたと思われる。水路・陸路と交通の要地でもあり、したがって文化も早く入ったと思われる。〔大島〕

明治22年東別府村・西別府村・下増田村の三村が合併して新たに別府村を設置し、昭和29年11月、熊谷市と合併。


※保は(1)律令制下の末端行政組織。五保ともいい、原則として近隣の五家で構成され、保長一人をおいた。防犯、納税などの連帯義務を負った。

(2)都城制における地割の一単位。四町をもって一保とし、四保をもって一坊とした。保ごとに保長がおかれた。

(3)《イ》平安後期より中世を通じて存在した国衙(こくが)領の一種で、別(符)名、郷、村とともに地方行政単位でもあった。国衙より別符を給して未墾地、荒廃地を開発した場合、その地を××保というように保号でもって呼び、開発者は保司とされた。保は保司の所有権を認められた私領であるが、一定の官物を国衙に輸すぺき国領でもあって、半公半私的性格を有していた。したがって荘園が収公された場合、荘号が保号に改められた例は多い。《ロ》封戸(ふこ)にかわる土地給与の一種。これを便補保というのは、平安後期、寺社に対する国家的給付である封戸の制が崩れてきたことの対策として、国衙が一定面積の公領を与えて免田とし、その収入を便宜補てんしたことによる。<村井康彦>「万有百科大事典」より




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