読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

30話萩山はぎやまー  

  「萩山」は大字千代の地名で、「萩山」と萩山南に分かれています。およそ東西1.0、南北0.4kmに及ぶ広い地域をいいます。地名の場所町立幼稚園の西側では、町総合文化会館建設に先立つ遺跡保存のため発掘調査が行われました。
 遥か八千年から一万年前、縄文時代早期のムラが見つかっています。この地に住みついた最初の住人たちは、竪穴住居跡を15軒、調理に使った石器や土器などを多量に残しています。しかし、彼らが去って以来、不思議なことに、他の時代の遺跡はほとんど見つかりません。長い間、人手の加わることがなかったようです。
 明治初年に編さんされた武蔵国郡村誌の千代村条に、 「萩山、東西八町南北三町三十五間」の広さがあると記されています。江戸時代後期に編さんされた新編武蔵国風土記稿には、「萩山」はみえず「萩畑」の小字名があります。江戸時代から明治にかけて、萩畑から「萩山」に地名が変わっていると思われます。
 このような変化は、地名の意味によるところが大きいと考えられます。 萩は、紅紫色の花を多数つけた低木で、万葉集にも多くの歌が残されるほど古代から愛された植物です。秋の七草の一つでもあります。丘陵、台地の乾燥地によく自生し、群落をつくる様子が「萩山」、萩原などの地名になっているようです。
 大字千代の「萩山」も、自然のままの萩が生い茂った場所で、萩そのものを目標物として生まれた地名であると思われます。古代からの地名であろうとの印象を受けます。
 現在の「萩山」は、山林・畑が主です。萩には草木の生茂った場所の意味も含み、関連して開墾地のことも指します。風土記稿には7回検地を行っていることが記されています。検地は開墾により耕作地が増える毎に行いますから、最初の検地である文禄四年(1595)に「萩山」・萩畑地名がみえない理由として、同地は後の開墾地であると考えられます。
 その時期は、慶安四年(1651)から明和二年(1771)までの間に当るようです。風土記稿の編さんされた天保頃(1830〜44)には、萩畑であったものが、郡村誌の編さんされた明治8〜9年(1875〜6)には「萩山」になっています。記録の上からは、わずか30年程の間に畑から山にもどっていると考えられます。千代村は台地の村ですから水田は谷田に限られ、新たを開墾地は山林を開墾して畑とすることが主でした。畑から山にもどる原因は、郡村誌にあるように肥料分の少いやせた土地である上に、水持ちの悪い乾燥地という土地の性状によるところが大きいと思われます。
 再びこの地が開墾されるのは、明治から70年余り経た昭和20年代のことです。そして今、町総合文化会館が建設されています。


 萩山遺跡の発掘調査風景の写真
萩山遺跡発掘調査風景

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