読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

33話権現坂ごんげんざかー  

  「権現坂」は、現在の県道深谷・東松山線が通る千代三本地区の境に位置する坂を呼びます。駒形公園の付近ですが、地籍図に載る地名ではなく通称のようです。もっとも、県道は近代に開削された新しい路線で、旧来の道路はやや西側の谷に添った街道で千代地区に含まれます。
 この坂道は歩む人も稀な程の小径ですが、かつては旧小川往還(現県道熊谷・小川線) より旧鉢形往還(現県道熊谷・寄居線)を結ぶ南北往還の一つで、旧村の板井千代三本を通っていました。台地から低地への変換点に当たる急坂でしたので、人馬・貨物の往来には苦労が多かったと思われます。坂の下に建つ馬頭観音を刻んだ石碑は荷車を引いた馬の苦労を慰めたもののようです。
 馬との関連は、本編第21話「駒形」 で紹介したように、三本地区に残るこの地名の場所には駒形神社がありました。同社の祭神は、熊谷直実の乗馬と伝えられています。名馬であったため、本尊の化身と考えられたようです。つまり信仰の対象が権り(仮り)の姿を現して助けてくれたと信じることから感謝の意を込めて祀った社で、本地垂迹の思想から出た信仰です。
 権現とは、仏や菩薩が衆生を救済するために権りの姿をとって現れることや現れたもので権化ともいいます。周知の例では、徳川家康を東照大権現に祀っていますが、戦国の時代を平定し江戸幕府を開いた功績に対して行われたものです。東照大権現の本来の姿は、薬師如来であるとされています。
 この様に仏が神の姿を権りて現れることが本来の意味のようです。奈良時代頃から流行し、神と仏の関係か説明されてきました。天台・真言宗のような密教系の宗派から広まり、さらに発展して、修験道ではより明確に本地垂迹の考えがまとめられました。
 旧江南町では、室町時代に板井押切に修験道の寺院があり、江戸時代も活動を続けていました。村落に住みついた修験者は、法印・別当・山伏様などと呼ばれ、現世利益的な信仰にかかる指導的な役割を果していました。おもに、雨乞・除災・地鎮・病気冶瞭・塞・塚の築造などに力を発揮していました。
 「権現坂」の名称は旧往還の坂とその周辺を呼ぶ地名ですが、その由来は駒形神社に関係しているようです。鎌倉時代まで遡る地名と推定されますが、坂を上り下りする街道はもっと古くからあったのかもしれません。
 古墳時代には、この坂に面した谷筋で多量の埴輪が焼かれ、ここから古墳の造られた小江川野原方面へ、踊る埴輪などが運ばれたようです。
 今、木々に埋れた旧道を行く人は稀ですが、かつては多くの人馬・物資が通り抜けていたようです。


 坂下より見た権現坂の写真
坂下より見た権現坂

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