読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

   富士山下ふじやましもー  

富士山には時代を超えて多くの人を引きつける強い魅力があります。人名・果物・地名まで富士を冠する呼び名はいくつもみえ、旧江南町内にも「富士山下」の地名が千代地内にあります。台地上の平坦地で、とくに高い場所ではありません。また「山下」は台地下にある地名で、台地上の山林を山上と意識し、台地の麓を山下と呼ぶ高低を示す上下(うえした)を意味しています。しかし、富士山下の場合には遠近を示す上下(かみしも)の意味がかかって存在したものの、片方が失われ一方に統合されたものと思います。

本来、富士の付く地名は、富士山を望める眺望の良い場所に富士見・見晴・遠見の様に付けられた例が多いようです。では江南の富士山から、山梨・静岡の富士山を望むことができるでしょうか。地図上、直線距離で約99km、標高約65m.(江南千代)から3,776m.(富士山頂)は仰角約2度・南南西148度の方向に望めるはずですが、奥多摩の連峰・外秩父山塊の山々が障壁となるため、実際には見ることができません。とすると地名の由来には他のことが関係しているとも考えられます。それは信仰に係わる由来です。前回の権現坂で紹介したように信仰の普及には修験者・行者が中心に居り、その信仰集団が講に発展し活発に活動するようになります。江戸時代以降は、講単位や地域単位で先達(せんだつ)・御師(おし)と呼ばれる指導者に率いられ、本山への参拝が流行しました。富士・大山(おおやま)・御嶽(みたけ)・三峰・榛名などは代表的な講で、現在まで継続している息の長い講もあります。

富士山は美しい姿と最高峰であることから非常に眺望がよく、原始時代より意識され、神仙の住むユートピアがあるなど多くの伝説を生み、また、度重なる火山災害をもたらしたことから、あこがれと畏敬の念を人々に抱かせたようです。祭神は作物の成長と豊穣を司る姫神、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)とされます。また、聖徳太子と甲斐黒駒の登山伝承、役小角(えんのおずね)(修験道開祖)の修業伝説も伝わっています。江戸後期には身禄上人の輩出により富士登拝が大流行し、身近な遥拝所と代理登山のミニ富士として人造の山が築かれました。富士塚といい関東一円に二百基以上造られたようです。

千代には富士塚に類する塚は見当たりませんが、富士信仰に係わる宗教者が輩出しています。空胎(くうたい)上人がその人であり、天明5年(1875)千代村島田家に生れています。空胎は富士信仰地の一つ三ッ峠(山梨県西桂町)の登拝を復活中興しています。空胎は生涯の大部分を富士で過ごしていますが、富士信仰にかかるものが町内に残っているとしたら、富士山遺跡の発掘調査で現れた建物跡などが、活動の場であったかもしれません。


富士山遺跡(近世の区画溝)
富士山遺跡(近世の区画溝)

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