読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

   十三塚じゅうさんづかー  

十三塚は、地区にあった名前で現在の字地名では「塩西」の場所に当たり、塩八幡神社の東方の丘陵上に位置していたようです。かつては、この場所に十三の塚(古墳状の盛土だがやや小さく土饅頭(どまんじゅう)のよう)があったと考えられるのですが、周囲は畑・道路とすっかり変わってしまい、塚は残っていません。しかし地元ではここに十三基の塚があったことを記憶している人はまだ多いようです。おそらく塚が削られ、跡形も無くなってしまったときに十三塚の地名を冠した由緒は忘れられ始めたのでしょう。そのためこの地名が、いつの時代に生まれ、どれほどの間使われていたのかはもう知る由もありません。元の地形が変わってしまってから、それまで使われていた呼び名である地名が失われていくというよくある例の一つであろうと思います。

十三塚の地名は、実際に十三の塚が築かれた場所に由来します。

塚を築くことと、場所・十三の数の意味はいくつか説明されていますが、いずれもはっきりしたものではありません。一つは十三仏を祀るために塚を築いたというもので、十三仏は死者の救済に当たる如来や菩薩を云い、中世以降民間に広まったようです。また、十三塚には主と家来十二人の主従十三人の落ち武者を葬ったという伝えや、災害等で非業の死を遂げた十三人を葬ったという伝えが各地で見られます。そのため、塚は、村内ではなく村境に造られ、その場所は聖地として汚したりみだりに塚を崩したりしないようにされてきました。

では、実際に塚はどのように築かれてきたのでしょうか。各地の例を見ると(a)一列に並び中央に大塚を築く例、(b)一列に並ぶが一方に大塚を築く例、(c)大塚の前に二列に塚を築く例、(d)中央に大塚を築き周囲を塚で取り巻く例、などがよくみられます。

の場合はこの中のどの例であったかは不明ですが、このように塚が並ぶ場所が市内に残っています。千代天神山には(d)例が、小江川釜場・新山・塩桧谷・丸山には(a)又は(b)例がありました。詳しい由来をほとんど失っていますが、新山には庚申塔が建ち、丸山には「かのえ塚」の名称がありました。隣村へ通じる街道沿いにあることは、必ずしも十三塚とは云えず、村境を守る道祖神の信仰が加わっているようです。

十三塚をめぐる各地で共通の悲話は、これを伝え歩いた名もない遊行の人たち(修験者・ごぜ・旅僧・薬売りなどの人々)の存在が伺われます。




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