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コラム18 踊る埴輪  [登録:2002年07月23日/再掲2012年10月11日]


            

 昭和5年に熊谷市野原古墳より出土し、現在、独立行政法人東京国立博物館に所蔵されている埴輪に「踊る人々」(通称:踊る埴輪)があります。
 極端な省略法を用いて作られたこの埴輪は、親しみやすく、いかにも踊って見える様子から、当時帝室博物館に勤務していた後藤守一氏によって、「踊る像」と命名されました。
 この埴輪、2001年にレプリカを作製し、現在、熊谷市立江南文化財センターで展示していますが、時々、一般の方々から、踊る埴輪性・性はどちらですかという質問を受けます。性の方が大きいはずとの思い込みがあるのか、あるいは、形質学上、性の方が平均身長が大きいという理解からきているのかは定かではありませんが、小さい埴輪性で、大きい埴輪性と考えられていると答えると、たいてい驚かれてしまいます。そこで、今回は、形の歴史からみた踊る埴輪の区別について調べてみました。
 
 日本人の型に関する最も古い記述は、西暦280年代に書かれた中国『魏志』の「倭人伝」の中にあります。「子は皆露介し、木緜を以て頭に招り、其の衣は横幅、但、結束して相連ね、略、縫うこと無し。婦人は被屈介し、衣を作ること単被の如く、其の中央を穿ち、頭を貫きて之を衣る」という有名な記述です。
 これは、倭人のたちは、みな頭にかぶるものをつけず、ただ、木綿のはちまきをし、衣服はひと幅の布を、そのまま腰にまいて、結び束ねるだけであってほとんど縫うことはしない。またたちは、を結わないで束ねあげ、衣服は一枚の布の中央に穴をあけて頭からこれをかぶるというように解釈されます。

 
遺跡から出土した最古の頭の資料としては、平成元年10月に、吉野ケ里遺跡群の志波屋四の坪遺跡より、弥生時代中期後半から後期初頭(約2千年前)にかけての甕棺墓内から美豆良(みずら)の一部と推定される結われた頭の一部が出土しています。

 推古朝の聖徳太子らが中国(隋)の煬帝に宛てた国書の一説「日出處天子致書日没處天子無恙云云(日出る処の天子、日没する処の天子に致す。恙無きや」の記述で有名な『隋書倭国伝『(7世紀:中国隋代)では、「婦人束於後,亦衣裙襦裳,皆有,竹為梳・・・」(婦人はを後に束ね、また裙襦(くんじゅ)・裳(も)を衣(き)、みなヒダ飾り有り。竹にて櫛をつくり・・・・)と記述されており、性は、後ろにを束ねていたことがうかがえます。

 6世紀代の人物埴輪を見ると、服装・持ち物・姿態から性と考えられる埴輪は、頭頂部で振分として垂らし、耳の横で結ぶ美豆良という形をしています(下図写真2)。同様の理由で性と考えられる埴輪は、撥形または扇状に島田髷風に頭上結しているものが一般的です(下図写真3)。

 『日本書紀』(720年完成:日本最初の編年体の歴史書)においては、景行紀27年12月、クマソ討伐の際に、ヤマトタケルはを解くという記述が見られます。「を解きて童の姿と作りて・・・」
 同様の記述は『古事記』の中にもみられます。「童の如き其の結はせる御を梳り垂れ、其の姨の御衣御裳を服して、既に童の姿に成りて・・・」。つまり、クマソ討伐に際し、ヤマトタケルは、少に変装するため結っていたを解き、垂らしたと解釈されています。
 また、逆に装する例として、『日本書紀』:神代紀上に、アマテラスがスサノオを迎える際に、「結 髻に為し」とあります。『古事記』にはもう少し詳しく、「即ち解 御 御美豆良に纒きて、乃ち左右の御美豆良羅にも、亦御鬘にも・・・」とあります。スサノオの到来を知り、アマテラスは、結っていたを一旦解いて垂らし、装のため髻に結いなおしたと解されます。
 また、『日本書紀』における結令の沿革を見ると
発布:天武紀11年(682年)4月23日詔して曰はく「今より以後、悉に結げよ。・・・・」
施  行:天武紀11年(682年)6月6日「始めて結ぐ。・・・」
緩  和:天武紀13年閏(684年)4月5日又詔して曰はく「・・・の年四十より以上は、の結き結かぬ、及び馬に乗ること縦横、並に意の任なり。別に巫祝の類は、結く令に在らず」
全面解除:天武紀朱鳥元年(686年)7月2日勅したまはく「更夫は脛裳を着、婦は垂于背すること、猶故の如くせよ」
 詔の対象となる階級については明記されていませんが、多くは庶民を含んだものと理解され、を垂らすことが素朴な型であることから、天武紀朱鳥元年の勅から、古代性の髪形型は垂が一般的であり、庶民の間には結が定着しなかったものと解されます。

 『万葉集』(成立年不詳、760年頃?)においては、巻16・3822『橘 寺之長屋尓 吾率宿之 童波奈理波 上都良武可』(読みは:橘(たちばな)の、寺の長屋に、我が率(ゐ)寝(ね)し、童(うなゐはなり)は、髪(かみ)上げつらむか)という歌があります。童とあり、童と呼ばれる年頃の少を垂らしていて、ある年齢に達すると上げ(長くなったを束ね上げる)することで成人性となったことを示しています。

 絵として残っている当時の形を示す例は、奈良の高松塚古墳(7世紀末から8世紀初)の壁画の子像が有名です(飛鳥資料館:参照)。子像の形は、全員長い垂を下で輪を作って毛先を上にし、首の後ろ当りで紐で縛っています。この型は後ろで束ともとれるし、背に垂ともとらえられられ、『日本書紀』や『古事記』の記述とも合致します。

 以上のことから、性の型は、弥生時代には垂で鉢巻状のもので押さえていたか、美豆良のように結う場合もあったようです。6世紀代になると、人物埴輪に見られるように美豆良等の結が一般化したようです。7世紀も後半になると、隋・唐の影響で冠を被るようになったため、頭上で一つに結うようになりました(冠下一髻)。この風は美豆良同様に明治4年の断令まで変化を伴いながら公家、社家では結われました。ただし、冠を被る必要のない一般庶民は、垂であったと考えられています。
 性の形は、弥生時代には、結わないで、後ろで束ねていたようです。問題は、古墳時代ですが、『隋書』の「婦人束於後」と、性人物埴輪に見られる島田髷風の頭上結とは明らかに別の物です。『日本書紀』の「垂于背」と『隋書』の「婦人束於後」と高松塚古墳壁画の性の形は、概ね一致し、埴輪形のみが異なるものと解釈されます。埴輪がある特権階級のみをモデルとして作られたために、当時の一般的な女性の形と異なっていると解釈するしかありません。一般に定着しなかった天武期の結令が目指した形こそが、あるいは、埴輪の島田髷風の頭上結だったのかもしれません。平安期になると、源氏物語絵巻にみられるように、上流階級の形も垂が主流となっていたようです。

 さて、以上の点から、踊る埴輪形を見ると、小さいほうの埴輪は、頭頂部に、小さいですが振分が表現され、耳の位置には小さな美豆良(上美豆良)のような表現がみられることから、性を表現しているものと思われます。問題は、大きいほうの埴輪です。頭部にはの表現は見られず、耳の位置には小さな円孔が穿たれており、耳の表現と考えられます。の結った表現が見られないところから、あるいは垂を表現しているのかも知れません。消極的な理由ですが、当時(6世紀)の性の一般的な形である美豆良の表現が見られないことのみが、性であると考える唯一の根拠となっているのが現状です。持ち物・服装・装飾品・姿態上からは、性差は認められません。
 埴輪の素朴な表現に起因するこの問題ですが、性同士が踊っているとみるよりは、素朴なが仲睦まじく踊っているとした方が、微笑ましいと感じるのは今日的な感覚でしょうか・・・。と最後は形式学的な判断でなく、感性に訴えて、踊る埴輪の区別とします。
 
 ちなみに、この埴輪は、ほんとうに踊っているのですか?との質問もたまにあります。ここまで、全国的に有名になっていながら、実は踊っていないとなると、大問題です。今回は、『この埴輪は、「”いわゆる(後藤守一氏命名するところの)”踊る埴輪」と呼ばれています』という表現にして、いずれ機会を改めて考えてみたいと思います。



1.踊る埴輪(小) 2.野原古墳出土埴輪(男性) 3.野原古墳出土埴輪(女性)
<参考引用文献>
亀井正道 1978 『ミュージアム』第310号 「踊る埴輪出土の古墳とその遺物」 東京国立博物館
橋本澄子 1998 『日本の形と飾りの歴史』 源流社
増田美子 1995 『古代服飾の研究ー縄文から奈良時代ー』 源流社
石原道博編訳 1985 『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝ー中国正史日本伝1ー』 岩波文庫

比較文学する研究会 「発表/NO,1仁徳紀解と持統紀被に関する一考察」「発表/NO,20古代日本における巫」」
http://hikaku.fc2web.com/index.html
たのしい万葉集 「巻ごと/第十六巻」 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/
飛鳥 高松塚古墳 「女子人物壁画」 http://www.asukanet.gr.jp/ASUKA2/TAKAMATUTUKA/takamatutuka.html