戻る 

コラム22 皇宋通寶と銭貨  [登録:2003年02月18日/再掲2012年11月20日]
 [追加:2003年02月24日]


             
       
      

 立野遺跡第3次調査において、第1号土壙より、「皇宋通寶」が出土したので、今回は、この銭貨の用途について少し調べてみました。

 今回出土した「皇宋通寶」は、北銭とされるもので、の四代皇帝 仁宗 在位の、寶元・康定年間(1038〜1040)に鋳造されたものです。
 丁福保著の 『歴代古銭図説』によるとこの「皇宋通寶」は、「文献通考及改元寶元仁宗特命以皇宋通寶為文有篆真二種又有鐡銭」という説明があります。つまり、銭文は、「寶元」という年の鋳造になるので当然「寶元通寶」とすべきところですが、「寶」字が二つになることから、「豊済通寶」の案もありました。しかし結局は、仁宗の特命により「皇宋通」と決定されたのでした。この「皇宋通寶」は、銭文には新書体と篆書体(てんしょたい:秦の始皇帝が文字の統一を図って制定した書体)の二種類があり、金質には銅銭と鉄銭とがあります。
 ちなみに、ちょっとややこしいのですが、この「皇宋通寶」に対して、「皇宋元寶」という銭貨が存在します。これは、南の皇帝 理宗 在位の宝祐年間(1253〜1258)に鋳造されたものです。前者が対読(上→下→右→左と読むもの:下写真1.2参照)、後者が回読(上→右→下→左の順に時計回りに読むもの:下写真3参照)という違いもあります。

 日本において銭貨は、西暦700年ごろの和銅開珎から10世紀半ばまで12種類の通貨(通称:皇朝十二銭)が鋳造されました。しかし、その後日本独自の通貨の鋳造はこの後16世紀末まで休止されており、この間は中国から貨幣を輸入し、専らこれを用いていました。
 この輸入銭の種類は何百種類にも及びますが、出土銭や伝世銭をみると、「開元通宝」「永楽通宝」「元豊通宝」などの唐銭や北宋銭が多く
、最も多いのがこの「皇宋通寶」のようです。北宋では、日本で流通するほど貨幣を鋳造したことになりますが、推定で毎年数百万貫(数十億枚)発行したとされています。

 ところで、古銭の形といえばこの、丸い硬貨の中心に四角い穴を穿った円形方孔の形が頭に浮かびます。この形の起源は、紀元前221年、秦の始皇帝が幣制の統一をした際に採用されたものです。その後この形状は、東アジアにおいて約2000年間用いられた典型的な貨幣形状となりました。もっとも、穴銭としては、中国殷王朝(BC1600-1046年)後期に用いられた円形の淡水産の貝にまで遡ります。金属で鋳造され、穴が円形から方形に変化したのが秦代ということです。
 この方形の孔は、一定の枚数単位でひもを通した銭緡(ぜにさし)作成のために穿たれたと考えられていますが、晋(紀 元310年ごろ)の魯褒という学者が『銭神論』で、外形の円は「」 を、方形の穴は「」をそれぞれ象徴すると述べています。つまり、円形方孔には、万物の根源である と同じような働きを、貨幣が経済面で担うことが期待されていたと考えられています。

 また、世界最古の貨幣とされる、古代中国殷王朝で使われたタカラガイは、子安貝とも呼ばれ、その形状から安産のお守りとしても使われました(下写真4参照)。
 ちなみに、栗本慎一郎氏はその著書の中で、この円形方孔の穴銭を、男性器を正面から見た形あるいは輪切りにした形であるという説を唱えています(栗本:1981)。


 ところで、貝という漢字は、タカラガイの一種、キイロダカラガイの形から生まれた象形文字で、貝を部首とする漢字が貨幣にかかわりがあるのはこのためです(賽・貨・財・貢・貧・貯・買・貸・費・賃・贅・・・・)。
 また、「生きガイ」とか「働きガイ」などの「カイ」は、「価値」という意味ですが、やはり貝を語源としています。そういえばしばらく前、何のCMかは忘れましたが、「ヤリガイ」の有る無しに掛けて、背負ったピンクの貝の大小を比べるというテレビCMが確かありました。ちょっとふざけたCMだった気がしますが、今思うと意外と奥の深いCMだったのかもしれません。英語でも、キイロダカラガイを「money cowry :お金のタカラガイ」と呼んでいます。
 「支払う」のハラウは、オハライのハラウであり、ケガレをハラウための道具が御幣(ごへい)であり、貨幣の「幣」はまさしく穢れをハラウためのものを意味し、さらに英語のpay(支払う)の語源はpacify(鎮める、なだめる)で、穢れた状態を脱して危険をなくすという意味があるそうです(栗本:1981)。
 

 このように、貨幣には、当初より、交換手段としてよりも、呪術的な性格が強かったと考えられます。呪術的な銭貨の使用例について、管見に触れたものをいくつか挙げてみます。

平城京の発掘調査で、740年代の屋敷跡の柱の下から、黄色の土に覆われた薬壺(やっこ)が 出土しています。薬壺とは、普通は薬や骨を入れておく容器ですが、中には、赤い絹、紙、墨、筆、刀、和同開珎5枚が入っていました。これは、後産のまじないの可能が指摘されています。
・中世後期から、亡くなった人をお墓に埋葬する時に、三途の川の渡し賃として6枚の銭を一緒にお墓に入れる六道銭の風習。
・出産にあたっての呪具
 例1:『公公記』【鎌倉時代後期の公卿西園寺公衡(さいおんじきんひら:1264〜1315)の日記】:乾元2年(1303)の昭訓門院御産愚記・延慶4年(1311)の広義門院御産愚記ー『出産にあたっては巫女、僧侶が侍り、用意された「双六局(すごろくきょく)」で巫女が「博(はく)を打ち」、土器(かわらけ)が割られ、散米が行われ、甑(こしき)が屋根から落とされるなど、さまざまな呪法が行われ、胞衣(えな)が降りると、公衝は、自らの手に白生絹(しろきぎぬ)袋に入れた99文の銭を持ち、新生児の耳に口をよせて「を以て父とし、を以て母とし、金銭99文を領して、児寿(ちごほがい)せしむ」という祝詞(しゅくし)を三遍となえる』とあります。
 例2:『玉蘂(ぎょくずい)』【鎌倉前期の公卿九条道家(1193〜1252)の日記】;承元3年(1209)5月25日の条ー5文の銭を胞衣とともに瓶子(へいし)に入れて埋納するとの記述があります。
・戦国時代、かの織田信長が永楽通宝の意匠を好み、この銭貨の図を象嵌(ぞうがん)した鍔(つば)を使用していた【重文 永楽銭紋鉄鐔】。
現代に残る例として、上棟式に屋根の上から投げる上棟銭、ケガレをハラウための銭洗いや賽銭投げ入れの慣行。

 最後に、岩手県の郷土史家である新渡戸仙岳(にとべせんがく:1858-1949)はその著書『銭貨雑纂』において、江戸期における貨幣に関連した信仰を集め、当時の人々が貨幣の字句を一種の吉語として解釈し、お守りとしていたことについて整理していますので紹介します。

和同開珎  : 家中仲むつまし
隆平永宝  : 身に災難なく家盛ん也
長年大宝  : いのち長し
開通元宝  : 眼病の者煎じ汁にてあらへばよし
宋元通宝  : 百文貯まれば家をおこす
皇宋通宝  : 長上にとりたてられる
至大通宝  : 心に思うこと叶う
永楽通宝  : (神仏をまつれば)諸願成就す
治平通宝  : 子宝多し
 
                   

立野遺跡出土皇宋通宝の写真 立野遺跡出土皇宋通宝の拓本
3.皇宋元寶拓本
1.立野遺跡出土皇宋通寶写真 2.立野遺跡出土皇宋通寶拓本 4.寶貝拓本
<参考引用文献>
瀧澤武雄 西脇 康 編 1999 『日本史小百科 貨幣』 東京堂出版
栗本慎一郎 1981 『パンツをはいたサル』 光文社
網野善彦 1994 「貨幣と資本」『岩波講座日本通史第9巻 中世3』 岩波書店
史料纂集  1968 『公衝公記 1・2・3』 続群書類従完成会

丁福保 1990 『歴代古銭図説』 陜西旅遊出版社

貨幣博物館 http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/index.htm